「人間は自分に従う限り自由であり、自分を従わせる限り不自由なのだ」

自由の哲学、という本をまた読んだ。上は同書よりの言葉、写真は横尾忠則氏の装丁による版。読むたび自問が湧く。近年つとに湧く。自由な存在としていまあるかどうか。


 

日々とはじゆうに使って良い時間のことであるはずだがそれを本当に自由に使って、生き得ているか、生き得てきたか。なんとなく、なしくずしに、妥協して、こわばって、一日を通過したことがなかったか、イマどうか。

 

日々の一日今日というのは生の限りあることを考えれば二度とない、貴く重い。囚われていないか、縛られていないか、服従していないか、支配されていないか。何かに、何者かに。過去に、現状に、さきざきのことに。つまり、自分を従わせてはいないか、いま。と、今さら思うのはたてつづけに逝った人があったからかもしれない。このような本をまた読んだのもそうかもしれない。

 

つねひごろについて、いまひとときについて、つい顧みる。この本の内容に合点がいくか著者のシュタイナーが何を意図したのかという以上に、文字列を追いながらさまざまな問いが己の身に及ぶ。

 

自ら考え、自ら決定し、自ら行動する。というヨゼフ・ボイスが語った言葉をおもう。本当の資本とは貨幣ではなく人間の創造力だ、とも彼はたしか言ったのではないか。そこに自由は関わっていると思う。人はものごとの基準を更新することができる。

 

この本をボイスも当然読んだのだろうと勝手に想像する。どこか通じるものがあるように感じる。1984年のボイス体験がなければ僕のダンスがシュタイナー思想と共感したり反発したり、つまりはカンケイしようとしたかどうかわからない。

 

ボイスの作品で充満した西武美術館や草月ホールで、視覚や聴覚よりもずっとビンカンな感覚を刺激されている気がして、どうじに、考えていて、考えているというそのコト自体が非常にたのしいという感覚に、はじめて襲われた。

 

何かをワカルために考えるという習慣があったが、ワカラナイものことがそこにあることがこんなにも考えることを楽しくしてくれるという、そういう初めての経験をボイスの形成した空間や空気は与えてくれた。

それからしばらくして、自由の哲学を読んだ。1987とか88年とか、そんな頃だった。はじめはタイトルに魅かれた。じゆうのてつがく。しかし読み進むにはかなり時間がかかった。あれから30年以上たつ。まだ読む。まだ読めない。

 

自由について考える。考えずにいられない状況がいま大きくなってあるように思う。空気を読め、忖度せよ、つながれ。言葉が変わってきた。世の中が変わってきた。私、というよりもミンナという回数がいつしか増えたのではないか。そう思えてならない。

 

自由なるものについて思考停止するとき、たぶん自分の中の人間として大切な何かが終わる。

 

「自由である限りにおいてのみ、われわれは真に人間であり得る」


という一文も同書にある。読むたびふと目が止まる。

 

 

 

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