まえの夏、とても工夫された演劇を観て気持ちが引き締まったことをおぼえている。それは都内のマンションの一室を手作業で劇場に仕立てて上演されていた。玄関が受付、手作りのひな壇にいくつかの客席。座ったとき、未知数の何かに接してゆくような気持ちが湧いて、期待とも不安とも区別がつかない感覚で開演を待った。粗作りの道具や音。照明は家庭用の電気器具だが細かく工夫されている。そこに役者の声が入ったとき、急激に何か激しい緊張が襲いかかってくるのだった。演目は『マクベス』だった。よこしまな精霊がひしめき合い、人間の悪が地響きをたてる。一つの身振りにしっかり重さがあり、一つの言葉が深く響くのだった。経験豊かな演技で構築されたものだった。日常が非日常に移ろいゆく。まさに劇だ。すべてがふきすさぶ嵐だ。そう思った。底知れぬ闇に荒野の寒風。それらは言葉の力と俳優の存在感によって醸し出されたもので、人間なしには成り立たない空間を感じた。物理的に足りないものがハッキリあるからこそ、する人の表現力も観るわたしの想像力もフル回転するのかもしれない。物がないからイメージが湧き、歌がないから心が歌うのかもしれない。役者やスタッフといった人たちの営みがとても近くて、演劇というのはいいなあと久々に感じていた。

 このマンション劇を観たあと、数年前の僕が長崎公演をさせてもらったあのときのことを思い出した。あのときは学校の運動場が地元の方々の知恵と行動と工夫で劇場になっていった。劇場はつくるものだということを理屈でなく思い知った。それからもっともっと前の、新宿花園神社で唐十郎さんの状況劇場を初めて観たときのことも思い出した。雨でずぶ濡れの紅テントの床は泥だらけで、そこに膝を抱えて興奮しつづけていた。興奮と不安定とが劇を激しく劇的にしていた。この十数年踊らせていただいているplan-Bにも場づくりの熱がなまなましく息をしている。打ちっぱなしの地下空間が工夫に工夫を重ねて表現場として継続されている。その床を踏んだ方々の行為の軌跡が、あちこちに残って、実に特有の現場感がある。空間が生きている。生身の人間と関わるように空間に関わらなければ何もできない。与えられた劇場で何が出来るか、という以上に、何によってそこに劇場を発生させることができるか。ということのほうが大事に思える。立派に建築されたシアターとは異なる興奮が、いろいろな場所に生まれてゆく可能性が、すごくあると僕は思う。

 

 

 


stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス、オイリュトミークラス