公演後の1週間、クラスを再開し、自分の稽古もまた始めた。クラスでは、動きを見ていて一人一人と会話するように感じることが増えた。踊りは言葉を誘うようだ。稽古を見て身体を読み取り、何か良い言葉をさがし、投げる。言葉を聞いて身体は変化してゆく。聞くべき言葉を投げることが出来るか、毎日ためされる。レッスンで踊る人に言う言葉をここに書くことはほとんどない。それは、目の前にある踊る身体が僕から引き出している言葉だから、その身体にしかきっと響かぬ響きだと思うからだ。長くレッスンをつけているうちに言葉を引き出せるようになってくる人が、ときに居る。そうすると受け答えのような稽古をつけられるようになってくる。人と人の間にある距離が変わると言葉が変わり、関係が変わり、そしてようやく身体に何かが届き始める、そんな気がしてならない。自分の思いを表現するのも素敵だけれど、それは何かを始めるキッカケなのかもしれず、むしろ全身が鼓膜のようになったときに聴こえてくる何かを形にするのが、ほんとうは踊りの力なのではないかとも思う。ダンサーの身体を通じて何が運ばれ聴こえたり見えたりするようになるか、、、。舞台の稽古でもスタッフが言う言葉は重い。観客の方からの声も身体に強く影響する。自分にこだわっていると身体は固まってゆく。言葉を聴きとれる身体、になりたい。ダンスの身体は関係によって存在している身体だから。そういえば、ノートに書くともう何か変わってしまうが踊りのなかでは蘇る、という言葉もある。書き留めたりする作業が、なぜかすでに身体と言葉を遠ざけてしまうことがある。知性ではまだあいまいでも身体を動かすときには感覚体験まるごとが思い出されるのだろうか。言葉、というより言葉の種なのかもしれないけれど非常にデリケートで多義的なものを身体は感知しているのだと思う。よくノートを書くが、書く行為は思い出す行為でもある。書きながら、ああうまく書き言葉にできないなあと思ってしかし書きながら同時に、いままだ文字には書き起こせない言葉を思い出すことも多い。それでも書き、あるいは話そうとする。ひとつの言葉はその奥にもその周囲にも無数の言葉をまとっていて、言葉にならないような言葉にさえ、ある一つの言葉は関わっているに違いないと思う。ダンスは非常に古い言葉なのかもしれないという考えを読んだこともあるが、言葉は運動につながっているのは僕も感じている。動きは言葉を誘う。動くゆえに聴き、聴くゆえに動く。そういう、関係している感覚まるごと、が身体のどこかに保存される。発話され、その言葉に刺激されて踊りが変わり、また何かが語られ、という、関係の言葉が、そして、言葉の関係も、踊りの身体には非常に必要なのかもしれない。 (続きはまた、、、)