シャトレ座のバランシン・ガラ(2016ニューヨークシティバレエ団)が深夜に放送されていた。
気づけば熱中していた。
バランシンのバレエといっても今まで感心することばかりで好きというのとは少しちがっていた。
ところが、このたびは自然に好きと感じ、魅入った。
この眼が変わったのかしら、と思えるほど気持よく感じる。
やはり踊り手が良かったのだろうか。
とりわけ、ラヴェルのソナチネによるデュオは魅力的だった。
舞台に居るのは男女2人のダンサーと1人のピアニスト。あとはピアノ、ブルーホリ、それだけ。
ほかに何もないのに、刻一刻と場が満たされてゆくのが、映像からも推測された。
あの女性ダンサー(ミーガン・フェアチャイルド)の踊りは、とても太陽的だと思う。
今現在そこにいるはずのない振付家の精神と一体化しているのか、とも思えた。
楽曲に溶かされた様々なものが踊る肉体を通じて地上に再結晶してゆくようだ。
あるいは人間の体内にある形成力がそのまま外気にとび出て空間を彫刻しているようだ。
それから、シンフォニー・イン・C。
ビゼーのハ長調交響曲によるアンサンブルだが、これには、あらためてバランシンの凄さを感じた。
すこぶる有名な作品だが、初めて観たときより数倍ときめきを感じた。
見ていると運動感がぞわぞわしてじっとしていられなくなるのだった。
閃きの連続のような鮮明な律動世界を僕はこのバレエに感じてならない。
17歳のビゼーが書いたこの曲をバランシンに教えたのはストラヴィンスキーだったと人に教わった記憶がある。
中学のころビゼーのこの曲を初めて聴いて聴き惚れ、探し歩いた。
きっかけは第二楽章を踊ったバレエ映画だった。
あくまで遠い記憶だが、ほとんど動きがない静止画のような美しさのバレエだった。
思い出して何度か調べたが、振付が誰だったのかはもとより、映画の題名さえ分からない、もはや記憶の断片だけ。
これと遠く、バランシンのものは非常に明快で大きな動きに満たされている。
みつめていると、動きの軌跡が心の中で重なり連なり、絶妙な線描画になり、立体になって、花が散るように放射され、そのときすでに新しい動きが生み出されて広がり始める。
そして、動きそのものが交響曲と交響して、音楽もまったく新しい音楽に生まれ変わってゆく感じがする。
バランシンのバレエは見える音楽とよく形容されるが、そこには同時に無数の言葉がまどろんでいるようにも、思える。
言葉の原型が、と言ったほうがいいかもしれない。
世界には沢山の言語があるが、誰にでも自由な解読をゆるされるような開かれた言葉が肉体にはやどっているのではないか、という妄想を僕はもっている。
バランシンのバレエをみつめていると、それもあながち妄想ではないのでは、と思えてくるのだった。
______________________________
【活動】
performance ダンス公演
※新作、進行中(4/6~7公演)
lesson レッスン
気づけば熱中していた。
バランシンのバレエといっても今まで感心することばかりで好きというのとは少しちがっていた。
ところが、このたびは自然に好きと感じ、魅入った。
この眼が変わったのかしら、と思えるほど気持よく感じる。
やはり踊り手が良かったのだろうか。
とりわけ、ラヴェルのソナチネによるデュオは魅力的だった。
舞台に居るのは男女2人のダンサーと1人のピアニスト。あとはピアノ、ブルーホリ、それだけ。
ほかに何もないのに、刻一刻と場が満たされてゆくのが、映像からも推測された。
あの女性ダンサー(ミーガン・フェアチャイルド)の踊りは、とても太陽的だと思う。
今現在そこにいるはずのない振付家の精神と一体化しているのか、とも思えた。
楽曲に溶かされた様々なものが踊る肉体を通じて地上に再結晶してゆくようだ。
あるいは人間の体内にある形成力がそのまま外気にとび出て空間を彫刻しているようだ。
それから、シンフォニー・イン・C。
ビゼーのハ長調交響曲によるアンサンブルだが、これには、あらためてバランシンの凄さを感じた。
すこぶる有名な作品だが、初めて観たときより数倍ときめきを感じた。
見ていると運動感がぞわぞわしてじっとしていられなくなるのだった。
閃きの連続のような鮮明な律動世界を僕はこのバレエに感じてならない。
17歳のビゼーが書いたこの曲をバランシンに教えたのはストラヴィンスキーだったと人に教わった記憶がある。
中学のころビゼーのこの曲を初めて聴いて聴き惚れ、探し歩いた。
きっかけは第二楽章を踊ったバレエ映画だった。
あくまで遠い記憶だが、ほとんど動きがない静止画のような美しさのバレエだった。
思い出して何度か調べたが、振付が誰だったのかはもとより、映画の題名さえ分からない、もはや記憶の断片だけ。
これと遠く、バランシンのものは非常に明快で大きな動きに満たされている。
みつめていると、動きの軌跡が心の中で重なり連なり、絶妙な線描画になり、立体になって、花が散るように放射され、そのときすでに新しい動きが生み出されて広がり始める。
そして、動きそのものが交響曲と交響して、音楽もまったく新しい音楽に生まれ変わってゆく感じがする。
バランシンのバレエは見える音楽とよく形容されるが、そこには同時に無数の言葉がまどろんでいるようにも、思える。
言葉の原型が、と言ったほうがいいかもしれない。
世界には沢山の言語があるが、誰にでも自由な解読をゆるされるような開かれた言葉が肉体にはやどっているのではないか、という妄想を僕はもっている。
バランシンのバレエをみつめていると、それもあながち妄想ではないのでは、と思えてくるのだった。
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【活動】
performance ダンス公演
※新作、進行中(4/6~7公演)
lesson レッスン