11月4日に京都で開催するコラボレーション公演、その呼びかけであり共働者である彫刻家・藤井健仁の展覧会が明日10月20日(土)からスタートします。「共働」とは今回の作業についての藤井氏の言葉で、気に入っています。
展示サイト
『藤井の「鉄の人形」を既成の芸術論内部へ言葉によって回収することは可能だろうか?(中略)もっと大きな視野で見れば、鉄の歴史や生命の進化としての人類史を 読まなければならないと、「鉄の人形」は時に語っているのかもしれない。.....』というのは、会場となる〈京都場〉館長の仲野泰生氏の文章ですが、僕が同感できる点は、この作家の作品群から鉄の歴史を感じたという点です。
鉄は近代や国家や資本や兵器など、ある意味まがまがしい想像力をかきたてますが、鉄は私たちの血液成分でもあり、鉄は意志の象徴とも思えます。夢と暴力と生命が交錯する物質、鉄というものの存在感を、僕は藤井氏の彫刻から強く感じます。
11月4日の公演では、ダンスのあと、仲野氏と藤井氏と一緒にトークを少しするのですが、そのときに、このあたりの鉄と人間のことも話題に出たらなぁと楽しみにしています。
以下は、2014年の暮れに掲載した拙文ですが今思うことにも重なるので一部再掲します。
川崎市岡本太郎美術館『TARO賞の作家Ⅱ』展での感想です。
「鉄の匂い。鉄に囲まれている。なんでこんなに鉄なんだろう。そう思う。僕には、鉄はカサブタのように見える。匂いからは尖った酸味の味覚が喚起される。ふと、血を想像する。血を舐めたときのあれは鉄分の味。血には鉄が溶けこんでいるらしいが、反対に、鉄は外在化した血液なのではないかな、と思う。なんだか不穏な場所に迷い込んだような気がする。
彼は一貫して同じ物質に関わり続けている。いつも鉄だ。それらは、具象的な像に設えてある。既知の像:ニュースで見たことがある人の顔、政治家や芸能人の顔。猫や少女は風のように姿態をくねらせ、あべそ~りダイジンも困り顔のまま固まっている。軽やかで、コミックのように近しさがある。笑ったり話したりしながら観ることができる。しかし、それらが何かわかっているのだから却ってそれらが鉄製であることがハッキリ露出される。重く、ゴツゴツして、尖っている。暴力的なくらいに、主題の軽さは素材の重さを押し出す。鉄を溶かし、叩き、削る、という肉体の行為が露出される。広く寒い工場跡のようなアトリエで一人で仕事をしている、その姿を思う。素材はテーマよりも重要かもしれない。時として形式が内実を超える。
ダンスでも、何を表現するかは入れ替わってゆくが、ナニデ、というと、肉体で、踊るのだからそこは最初から最後まで一貫してゆく。踊りの創作と彫刻は似ているなと、しばしば思う。実際、ひとつの作品を作ってゆくプロセスの大部分は、振り付けとか舞台構成よりも、肉体そのものを変化させることに費やしている。どんなダンスを踊ってどんな舞台にするか、それ以上に、どんな肉体を舞台に乗せるか、どんな身体になって立とうとするのか。それを求めて訓練や瞑想や試行錯誤を実行していると、肉体や神経を彫刻しているような気がする。踊り続けてきたと同じ時間を、肉体を彫り続けてきたのではないか、とも思える。
世界観や主題は変わってゆくが、この身体とは肉体とは何かな、という問いは変わらないどころか深まり続けてゆく。
肉体との関係を大切に育ててゆくことがダンスの根っこになる。美術家も、やはり何か一つの事に向き合い続けているんだな、と、藤井の仕事から、思う。」

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stage info.
11/04 京都
櫻井郁也ダンス「絶句スル物質」----------藤井健仁の彫刻とともに
11月4日(日)16:00 京都場アートギャラリー
Sakurai Ikuya Dance performance in Kyoto
”Howl, Blood, Substance” for Sculpture by Fujii Takehito
4th Nov, Sunday.2018 at "KYOTO-BA" art gallery Kyoto
■予約受付中■くわしい内容は、上記タイトルをクリックして下さい
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『藤井の「鉄の人形」を既成の芸術論内部へ言葉によって回収することは可能だろうか?(中略)もっと大きな視野で見れば、鉄の歴史や生命の進化としての人類史を 読まなければならないと、「鉄の人形」は時に語っているのかもしれない。.....』というのは、会場となる〈京都場〉館長の仲野泰生氏の文章ですが、僕が同感できる点は、この作家の作品群から鉄の歴史を感じたという点です。
鉄は近代や国家や資本や兵器など、ある意味まがまがしい想像力をかきたてますが、鉄は私たちの血液成分でもあり、鉄は意志の象徴とも思えます。夢と暴力と生命が交錯する物質、鉄というものの存在感を、僕は藤井氏の彫刻から強く感じます。
11月4日の公演では、ダンスのあと、仲野氏と藤井氏と一緒にトークを少しするのですが、そのときに、このあたりの鉄と人間のことも話題に出たらなぁと楽しみにしています。
以下は、2014年の暮れに掲載した拙文ですが今思うことにも重なるので一部再掲します。
川崎市岡本太郎美術館『TARO賞の作家Ⅱ』展での感想です。
「鉄の匂い。鉄に囲まれている。なんでこんなに鉄なんだろう。そう思う。僕には、鉄はカサブタのように見える。匂いからは尖った酸味の味覚が喚起される。ふと、血を想像する。血を舐めたときのあれは鉄分の味。血には鉄が溶けこんでいるらしいが、反対に、鉄は外在化した血液なのではないかな、と思う。なんだか不穏な場所に迷い込んだような気がする。
彼は一貫して同じ物質に関わり続けている。いつも鉄だ。それらは、具象的な像に設えてある。既知の像:ニュースで見たことがある人の顔、政治家や芸能人の顔。猫や少女は風のように姿態をくねらせ、あべそ~りダイジンも困り顔のまま固まっている。軽やかで、コミックのように近しさがある。笑ったり話したりしながら観ることができる。しかし、それらが何かわかっているのだから却ってそれらが鉄製であることがハッキリ露出される。重く、ゴツゴツして、尖っている。暴力的なくらいに、主題の軽さは素材の重さを押し出す。鉄を溶かし、叩き、削る、という肉体の行為が露出される。広く寒い工場跡のようなアトリエで一人で仕事をしている、その姿を思う。素材はテーマよりも重要かもしれない。時として形式が内実を超える。
ダンスでも、何を表現するかは入れ替わってゆくが、ナニデ、というと、肉体で、踊るのだからそこは最初から最後まで一貫してゆく。踊りの創作と彫刻は似ているなと、しばしば思う。実際、ひとつの作品を作ってゆくプロセスの大部分は、振り付けとか舞台構成よりも、肉体そのものを変化させることに費やしている。どんなダンスを踊ってどんな舞台にするか、それ以上に、どんな肉体を舞台に乗せるか、どんな身体になって立とうとするのか。それを求めて訓練や瞑想や試行錯誤を実行していると、肉体や神経を彫刻しているような気がする。踊り続けてきたと同じ時間を、肉体を彫り続けてきたのではないか、とも思える。
世界観や主題は変わってゆくが、この身体とは肉体とは何かな、という問いは変わらないどころか深まり続けてゆく。
肉体との関係を大切に育ててゆくことがダンスの根っこになる。美術家も、やはり何か一つの事に向き合い続けているんだな、と、藤井の仕事から、思う。」

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11/04 京都
櫻井郁也ダンス「絶句スル物質」----------藤井健仁の彫刻とともに
11月4日(日)16:00 京都場アートギャラリー
Sakurai Ikuya Dance performance in Kyoto
”Howl, Blood, Substance” for Sculpture by Fujii Takehito
4th Nov, Sunday.2018 at "KYOTO-BA" art gallery Kyoto
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