
新作ソロ公演「かなたをきく」(3/31〜4/1)。美術プランも、詰めに入ってきました。
眼に見えるものの背後には必ず眼に見えないものがあるように、
耳には聴こえないけれど、聴こえない響きをひびく響きが、
時間の裏側や物質の根にはアルのではないだろうか、
それをききとれないだろうか、
ききとろうとすることから、聴こえる音や見える空間や動きを形成することはできないだろうか、
それらと踊ることはできないだろうか、、、。
というのが、今回のダンスのはじめにあった衝動で、
やがてそれは、振付けや音楽や言語をこしらえ、壊し、またカタチにされ、という作業場をうみだし、
夏秋冬をこしてきました。
それらの時間の集積が、どのように舞台空間と結びついてゆくのか、
また、どのような衣裳を紡いであらわれるのか、かなりの緊張感で、いまを過ごします。
それらは稽古を何度も見て発想され、デッサンや設計図で稽古場に持ち込まれ、
それを見て踊りが変わり、またその踊りを見て描かれたものが持ち込まれ、
と繰り返されます。衣裳も同様。
眼と眼でおこなう対話というのでしょうか。
具体的な振付や照明デザインと相互に変化を促し合う作業ですし、音楽音響も新しく変わることもあります。
影響しあうほうが良いところ、独立して保たれなければならないところ、
それらが鮮明に認識できなければ困ってしまう、とてもデリケートでスリリングな作業です。
音楽を身に受けるときもそうですが、
美術を受け入れるとき、着るものをまとうとき、
踊りはやはり変わります。
ことなる人の感覚と、
物質の存在感と数学が 、
そこにはエネルギーを発しはじめる。
もっぱら自ら発し構築していったものが、
他者の感覚と交わり、溶けようとし始めます。
いらないなにかがひきはがされ、はだかにされ、
受け容れの身体が身体を露出しはじめる感じもします。
次第にではなく、急速に、です。
肌で、骨で、
ほのかなもの、淡いもの、かすかなもの、を、
きいてゆくように行為することができれば良いのですが、、、。
わたくし、とか、おれ、とかいうようなやつの意思の力を断ち切って、
どうぶつのからだで、もっと神経の先っぽで、踊れると良いのですが、、、。
ダンス公演情報(櫻井郁也ダンスソロ最新作)
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