ソットヴォーチェというのは音楽の用語で、そっとうたう、ということですが、これは僕のダンスのなかで、いつも気になっていることでもあります。
声なき歌として、おどりたい。そっとした踊りを、おどりたい。
という気持も重なっております。

大声で叫ぶ歌や、壮麗な行進曲から、僕はふと逃げ出したくなることがあります。
かすれる声や、彷徨う風のような音となら、ずっといっしょに踊りたいと思います。

作曲家・福島諭さんは、そっとうたう歌を紡いでいる人、かすかな音をすくいあげる人だと思います。
この人に、今回の新作公演への楽曲提供をお願いしました。

斬新な、しかし実にきめ細やかに紡ぎ出される曲は、音による織物のようで、僕はとても共感します。
息の音楽。と言えば良いのでしょうか。
しかし、呼吸の音楽、というような感じではない。
息をする音楽、というか、、、。

息をぐっと詰めてゆくような、そして張りつめて張りつめて何かを生み出してゆくような、ちょうど、何かを産むときの、デリケートさと踏ん張りが共存するような、慎重で強い息の感じが、氏の創り出す新しい響きに宿っているように、僕には感じられます。

炎を形成する力、風を吹き起こす力、といった、さまざまな現象の背後にあるエネルギーへの興味を、僕は踊りつつかきたてられますが、福島さんの音楽にも、近しい感覚があるのでは、というようなことを失礼ながら勝手に思ってしまいます。

そして、氏の音楽は、僕自身がダンスという何かに思う希望を、さりげなく励ましてくれるような「音楽/音/響き」でもあります。

だから、根底のところで「何か」が重なる予感がします。「何か」というのは世界観とかテーマ性とかいった表面ではなく、もうすこし内部のことです。
驚きや感動の起こり方かもしれないし、感情の根っこかもしれない。
あるいはさまざまな現象に対する接し方が、どこか重なる予感がするのかもしれません。

別なる魂と魂が呼び交したり対話するような関係を、福島氏の音楽とともに踊るシーン。それに対して、僕自身の楽器演奏とサウンドコラージュによる、身体の動きと楽想が最初から一緒に発想されているシーン。という、音と身体のあいだの二つの関係性が、今回の作品には構成されています。

それは、ダンスと意識の遠近感、身体と魂の距離、といったものを浮上させるかもしれません。
あるいは、「音から喚起される踊り」と「踊りから生まれる音」という二層が波をたてるかもしれません。

初めて福島諭さんの音楽を聴いたのは2010年で、すぐに踊らせてほしいとお願いしたそのときの作品は、上の写真の、そして過日にも一枚写真を掲載した「器官なき身体~phase1」という、そのタイトルの通りアントナン・アルトーのテキストから衝動したものでした。アルトーの言葉や映像の演技やラジオドラマから衝動した「痛覚」への挑戦でした。そのとき福島さんの楽曲は時間的にはほんの少しだったのですが、身体に強く残るものがあり、もっと、と思うようになりました。以来、今回まで8年たっています。

東日本大震災の直後の公演『かつてなき結晶/3.11サイレント』という作品のときに、初めてちゃんとお話をすることができ、それからまた何年かがたって、たまたま会いましょうという機会が訪れ、それは氏の新しい作品にふれる機会ともなり、そこでふれた音楽が今回の作品にとても重なるものがあり、、、思い切って2回目のお願いをさせていただきました。

音楽と身体の関係は「果てしない」と、今回あらためて感じています。

この舞場で、いかなる「こと」を「とき」を生み育てることができるか、いかなる壊れと始まりを起こすことができるか、さて、どこまで、、、。

(つづく)

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ダンス公演情報(櫻井郁也ダンスソロ最新作)
SAKURAI Ikuya Dance performance : Stage information