
横須賀の街、大野一雄の身体、傷、肌、フリーダ・カーロのコルセット、お母さまの遺品、ヒロシマの少女の服、、、。すべてが肌に直接さわるような、そしてひりひりとするような、石内都さんの写真の一枚一枚を見つめながら、いつのまにか、遠くの歌をきいているような気持になっていた。おおきな画面のなかに、だれかの声がしみこんでいるのかもしれなかった。明るさの粒子と暗さの粒子とが絡まり愛し合っているように見えた。ヒカリとヤミが無限の接吻をしているようにも、なんだか思えた。写真という何か行為の連続の素敵を、たったいま石内さんの作品によって垣間みているのではないかと思えてくるのだった。
暗室で作業されているビデオがあったが、まるで染織家が糸を染めてゆくように見えた。大きな印画紙に両手で液体をなじませていられる姿にひきつけられた。それから、いろいろ思い出した。僕は、こどものころ父が暗室で写真を現像したりプリントするのを、よく眺めていた。父は写真好きで、奈良の古い町家の一室を暗室にしていた。それから若いころ、写真の勉強をしている友人がいて練習用のモデルをさせられた。彼は狭いアパートを暗室にしていた。真っ暗のなかで、赤色の暗室ランプの光の中で、すこし酸っぱいような薬品の匂いといっしょに、次第に撮影された像が正体を現す。その時間そのものがなんだか魅力的で、よく眺めていた。いちど、亡くなった方の姿が写った写真をプリントするのに立ち会ったことがある。失われた時間が印画紙の中で息を吹き返すようでもあった。
写真には時間が写る、と石内さんが話されている番組を見たことがあった。その番組の中で「ひろしま」の撮影風景も紹介されていた。被爆した方々が遺された衣服を一枚一枚あかるい光の中で丁寧に撮影されている姿だった。今回の展覧会のラストコーナーには、その最新作があった。そこに身体はなかったが、存在、というのだろうか、遺された衣服の写真のなかで身体よりも確かな人間の体温が輝いているように思えた。身体は喪失されるが、人間は喪失されないのだなあ、とも、思えた。
(横浜美術館「石内都・肌理と写真」展にて。3/4まで。)