先日、アンセル・アダムスの写真展を観ました。共感する音楽家とご一緒することができたことも手伝って、新鮮な体験になりました。
「プリントだけが作家の意図やメッセージを表している」と言ったアダムス自らプリントした銀塩写真が60点ほどもあるでしょうか。「ネガは楽譜、プリントは演奏」ともアダムスは言ったそうですが、ナマでそれらを観るのは初めてでしたが、やはり素晴らしいです。
この写真家にピアノの才があったことも関係しているのでしょうか、極度に緻密な一枚一枚の写真の前に立つとき、デリケートな室内楽に身をゆだねているような感覚がして、仕方がありませんでした。写真は光を内包していますが、アダムスの写真をじっくり観ていると、光の階調がメロディや和音を奏でるように動いているように思えてくるのでした。

上の写真は、アダムスが少年の頃に初めて訪れたヨセミテ国立公園で撮影したものだそうで、ここに写されたハーフドームを、あるいはモノリスを、滝を、月や樹木を、ヨセミテの自然があらわすさまざまな表情を、彼は生涯を通じて何度も撮影し続けたのでしたが、それは実に凄いことだと思います。
ある何かを見つめ続けること。
ある何かを深め続けること。
ある何かと一つになってゆくこと。
撮影からプリントまで、一枚についやした時間と手間は大変なものと思います。
アダムスの写真は、沈黙から何かを聴きとってゆく行為でもあるようで、それは無い音を生む行為でもあるようで、それは、、、。

12/6(水)まで乃木坂の富士フィルムスクエア。写真はいづれも同展にて。
「プリントだけが作家の意図やメッセージを表している」と言ったアダムス自らプリントした銀塩写真が60点ほどもあるでしょうか。「ネガは楽譜、プリントは演奏」ともアダムスは言ったそうですが、ナマでそれらを観るのは初めてでしたが、やはり素晴らしいです。
この写真家にピアノの才があったことも関係しているのでしょうか、極度に緻密な一枚一枚の写真の前に立つとき、デリケートな室内楽に身をゆだねているような感覚がして、仕方がありませんでした。写真は光を内包していますが、アダムスの写真をじっくり観ていると、光の階調がメロディや和音を奏でるように動いているように思えてくるのでした。

上の写真は、アダムスが少年の頃に初めて訪れたヨセミテ国立公園で撮影したものだそうで、ここに写されたハーフドームを、あるいはモノリスを、滝を、月や樹木を、ヨセミテの自然があらわすさまざまな表情を、彼は生涯を通じて何度も撮影し続けたのでしたが、それは実に凄いことだと思います。
ある何かを見つめ続けること。
ある何かを深め続けること。
ある何かと一つになってゆくこと。
撮影からプリントまで、一枚についやした時間と手間は大変なものと思います。
アダムスの写真は、沈黙から何かを聴きとってゆく行為でもあるようで、それは無い音を生む行為でもあるようで、それは、、、。

12/6(水)まで乃木坂の富士フィルムスクエア。写真はいづれも同展にて。