言葉にはいくつかの層があるのだろうか。と思うことがあります。
誰かが話してくれた言葉でも、特別に強いものでなく特別に感じ入ったわけでもないのに耳に残っているものがあり、それがしばらくして新しい意味合いを発生して、膨らみ、いつのまにか大事になっている。同じ文章でも何回も読んでいると味わいが出てくるように。そのような言葉の反芻の作用は楽しく不思議でさえあります。リサイタルのもとはリサイト、くりかえす、ということでしょうけれど、昔の人はよく考えたものだと思います。同じ言葉を何回も繰り返し、ときに律動し、ときにうたになり、ということ。繰り返しならば、「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかやつき」という明恵のうたは、えらく有名ですが、昨夜のような強い光の月を見たときに、ふと思い出してしまう。それをきっかけに、ただでさえ繰り返すこの歌を、実に何回も繰り返し思ううちに、あ・か、ということが異様に広くなって心を変更させられてゆく。よくもあり、おそろしくもあるが、言葉というものには単純に直接の意味が分かる分からないというのとは全く別のコンタクトが隠されているに違いない。などと、ときに思う、思えてしまうことがあります。