何週間か前だったのですが、たまたまつけたテレビに落ち着いた声と穏やかな表情が素敵な人が映っていて、これは誰なのだろう、と思ってしばらく見ていると、物理学者の大栗博司さんという方でした。

大栗さんは素粒子論の第一人者だそうですから、僕の知恵ではとても追いつかない方なのに、それなのになぜか話の方も、よおく聴いていると実に面白い。惹きつけられるのでした。

それは宗教学の横山紘一さんとの対話だったのですが、仏教の唯識論に対する科学者としての意見を求められての対話でした。

心をみつめることから存在を理解しようとする唯識論、外にある現象を研究対象とすることから世界を理解しようとする物理学。

なかに、「自分」という言葉が指し示すものは一体何か、「存在する」とは一体何であるか、というようなことに対して(科学では)「物自身」が何であるかと「存在とは」何であるかという問いには答える事は多分できないと思う、という会話がありましたが、これをきいていて、宗教者と科学者の立場の違いというのは、僕にはすこし哲学者と芸術者の立場の違いにも似てくるように感じました。

僕にとっては、大栗博司さんの言葉は非常に説得力がありました。
「(ヒトの)脳の進化的な目的というのはこの世界のありようをより正確に理解しようという事だったんだと思う」
「(自然から)与えられた機能を充分に発揮するときに「存在」というのは生き生きして幸せを感じるのではないだろうか」
というような趣旨の発言が大栗さんからあったのですが、それには本当にそうだなあと頷いたのでした。

また僕たちがやっているオドルということも大栗さんの言う「この世界のありようをより正確に理解しようという事」にもしやつながっているならばうれしいなあとも思えてくるのでした。

唯識論を研究する横山氏は対話のあと司会者に「大栗先生と話をされていかがでしたか」ときかれて「やっぱり心の外に物を認める科学者と(仏教の)唯識は認めあいにくい」「食い違うところが非常に多いです」「追究していく対象が違う」「、、、、」というように色々お答えになっていました。

とちゅうからしか聴けなかったけれど、異なる視野のお二人が、安易に接近するわけでなく、むしろハッキリとした差異を浮き彫りにしながら、それぞれの言葉にじっくりと耳を傾けてゆかれる雰囲気は実に素敵に感じました。

ひとなる存在はそれぞれ異なっている(かもしれない)ということ。
世界という何かはひとつではない(かもしれない)ということ。
お二人の対話からは、そのような空間の面白さが垣間見えました。

わかりました、ということばかりでなく、わかりません、ということをこそ尊重し合える世の中がいつか来ればいいなあ、とも、ちょっと思いました。