詩と踊る、その振付をした。
オイリュトミーは視える詩・視える歌とも呼ばれる。20世紀初頭のドイツで創案され主にヨーロッパに拡散した。
言葉に踊るカラダ、というものを探す。さがしつつ、文字の発明の前に、音声言語の長い時代があったのではないか。と思う。いや思い出す。
文字の言葉とはちがう、目の前に、少なくともその声の届くところに、誰かがいる。また聴く人がいる。人と人がそばにいなければ成立しない。そういうなかでの言葉だ。
反芻することも、それは発話者を直接思い出すことになるし、そもそも、言葉は容易に完結するものではなかっただろう。
言葉とは息吹である、とも思う。
言葉を手がかりに踊るを試みようとするというのは、他者の息吹に触れようとすることに他ならないのではないか、と想う。
触れようとする、つまり、振れであり、震えであり、奮えでもあるだろう。
言葉のかたち、とでもあらわせばいいのか、を、探している。オイリュトミーに関わっていると、そんな気分になってくる。
探しながら、私は、私たち自身の声を聴こうとしているのだろうか、言葉というものに込められた、文字より古い昔からの声を聴こうとしているのだろうか。とも。
開講中のレッスン
オイリュトミーは視える詩・視える歌とも呼ばれる。20世紀初頭のドイツで創案され主にヨーロッパに拡散した。
言葉に踊るカラダ、というものを探す。さがしつつ、文字の発明の前に、音声言語の長い時代があったのではないか。と思う。いや思い出す。
文字の言葉とはちがう、目の前に、少なくともその声の届くところに、誰かがいる。また聴く人がいる。人と人がそばにいなければ成立しない。そういうなかでの言葉だ。
反芻することも、それは発話者を直接思い出すことになるし、そもそも、言葉は容易に完結するものではなかっただろう。
言葉とは息吹である、とも思う。
言葉を手がかりに踊るを試みようとするというのは、他者の息吹に触れようとすることに他ならないのではないか、と想う。
触れようとする、つまり、振れであり、震えであり、奮えでもあるだろう。
言葉のかたち、とでもあらわせばいいのか、を、探している。オイリュトミーに関わっていると、そんな気分になってくる。
探しながら、私は、私たち自身の声を聴こうとしているのだろうか、言葉というものに込められた、文字より古い昔からの声を聴こうとしているのだろうか。とも。
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