話題の映画『ラ・ラ・ランド』には鈴木清順からの影響が随所にあるのです、というチャゼル監督のたった一言を知り、それは、ぜひ早くと待ち構える矢先に、当の鈴木清順氏が逝去されたとのニュースを聞いてしまった、切ないです、、、。

初めて鈴木清順監督の映画を観たのが、あの「ツィゴイネルワイゼン」でした。

高校生だったのですが、これが、よかったのかいけなかったのか、色々な趣味をもよおす一つの刺激になってしまった感じもする。あれは誘惑だったのかもしれません。

本筋の面白さ幻想もさることながら、細部の魅惑。例えば、すき焼きをつついて、それから鎌倉の夜を散歩する場面がある、その流れのなかで、もちろん大谷直子さんが半身をはだけて何故か指をパチンと鳴らす不可思議なフラッシュカットの官能は眼に焼かれたが、より細かくは、すき焼きの蒟蒻を千切る手付きだとか、舌鼓の感じだとか、外風に歩きながらチョッと夜花を仰ぐ感じだとか、積み重ねられるほんの一瞬一瞬が奇妙に克明に印象に残って、あとに続いた日常の何かを揺さぶってしまうのでした。それから、あらゆるタイミングの小粋さ、トントントン、パパパッパ。そのような、画の隅々から、時の節々から、何か得体の知れない香りが匂いたつ魔力のような映画でした。

名画座をさがして「殺しの烙印」に「東京流れ者」など観るうち「陽炎座」が発表され、いつしか、粋、というのか、おしゃれ、というのか、品、というのか、あるいは、狂い、というのかもしれない、そのような自分では扱ったことがない花、しかし、魅力を感じる大人たちの会話などに時々にかすれる匂いに、鈴木清順の映画から眼で触れさせられたような、そして訳も分からないままに、色、というような種類の言葉にさえ背伸びして憧れてしまって、読書も音楽も、坂落ちるように変わっていった気がします。

しかし創作というのはやはり一朝一夕ならぬ技のなすところなのかしら、監督デビューから十年で四十作にも及ぶ映画を休まず量産したところで、あの『殺しの烙印』が出来た、というのを聞けば、やはり量か、と、怠けを恥じる気持ちにもなりますが、とにかく沢山つくられた方です。だから、なのでしょうか、軽やかユーモアな才人と言われながらも、その発言からは、ズンと突かれる鋭さを、僕は感じます。

たとえばネット上で読めるものでも、四方田犬彦さんの文章に鈴木監督の一言が紹介されていて、そのなかに、

「戦争の体験談とは親が子供にすべきもので他人にすべきものでは本来ないような気がする」()

という、これには強く打たれますが、実際に親や祖父母から戦争の話を、暮らしのなかで、聞いて育ったのは僕らが最後の世代かもしれず、その僕らは、それで、それから、いま子供たちに対して、それをどんな声にしてきたか、また今からでも、してゆくのか、ということを、鈴木監督から問われているように思えます。たとえ戦争のことならずとも、僕らは僕らなりの、声というものを、果たして、、、と。

93歳だったとのこと。

僕らが知らない大事なことを知っている方が、また一人、向こうに行かれました。