「もし世界の声が聴こえたら」という題名に魅かれて多木浩二氏の本を読んでいると、冒頭にメレディス・モンクのことが書かれていて、それはかつて、1997年ですが、僕も同じ会場で鑑賞して今も胸に残っている「ヴォルケーノ・ソング」という舞台のことだったので少し嬉しくなってしまいました。嬉しくなりながら、ありありと記憶が蘇りました。とりわけ声の記憶を。

彼女のパフォーマンスは人によってはダンスとも音楽とも劇とも言えるのでしょうけれど、僕にはそのどれにも属さない、声そのもの、あるいは、声をも含めた一種の沈黙の広がり、とも思える特別な「こと」でした。

彼女が発する声の豊かさはもちろん、佇まいも、身振りも、それらから生まれる空間や時間もが、声として、あるいは、しじまとして、深い深い震えを震えているようでした。

多木氏も文中で触れていられましたが、途中、彼女が大きな夜光板に横たわり、そこに強いライトを浴びたあと真っ暗になって、彼女の身体の影が焼き付いてゆくシーンがありました。

原爆のあとに遺された人影がありますが、一瞬はそのようにさえ見えたその影が、次の瞬間は再開されたリサイタルのなかで彼女自身の柔らかい歌に包まれながら、いつしか再び消えて周囲の光陰と同化してゆく、影が光と呼吸してゆくのです。

その光景は声の残照のようでもあり、新しい声の予感でもあるように感じたのを思い出しました。

僕には、声を発する、ということと、踊ることは、どこか重なり合うような気がしてならないのですが、思い返すなら、メレディス・モンクが紡ぎ出したあの時間は、もしかしたらそのような気持ちを、より強く思わせてくれたのかもしれないなぁとも思います。

語る、ということではなく、
歌う、ということでもまだない、声を発すること。
もしくは、声を発しようとすること。
もしかしたら、まだない声を、声を発しようとしながら、聴こうとすること。

じっと内部に、あるいは世界に、あるいは内部と世界の間の境目に、じっとひそかに、耳をそばだて、まだ聴こえない声を聴こうとするような気持ちが、僕らヒトには潜在していて、それが歌や言葉や踊りとして身体の底を震えさせるのかもしれません。
伝えたいことを表現する、という以前に、聴こえない何かが聴こえてきたとき、あるいは聴こうとすることから、つまりは受容と生みの境目に生ずる力によって、身体が揺さぶられ、歌や言葉や踊りが始まるのではないか、と。

そのようなことを、メレディス・モンクのことを思い出しながら、妄想しました。

このことを文章を通じて思い出させてくれた多木氏は震災のあとすぐに亡くなられたのですが、もしご存命でいられたならば、あの後の今をどのように見られただろうか、今この世界から、どんな声を聴き取られたのだろうか、とも思うのでした。