私自身には見えず、しかし他者の眼には極めてハッキリと映るであろう何か。つまり裸としての何か。
動きの渦中に現れるそのような何かが、私と他者のあいだにダンスを生じるのかも、と思うことがあります。
私自身には見えない、せいぜい淡く感じ取ることしか叶わない、しかし、他者の眼差しを信頼して受け入れてゆくと初めて垣間見える何か。
日常で認識できる身体というものが壊れて、出会ったことがない生き物が現れてくるような何か。
視線との交感から生じる身体。
交感のなかでしか存在しえない身体。
書でも、書いた人や思った人の心の動きが一つ一つの線にになって空間やその背景に流れる時間を出しているけれど、あれも、一種のダンスの痕跡かもしれません。誰に読ませるか、によって文字が線が余白が変わる。書きつらねた言葉の意味よりも、書いた字から伝わる何かは大きいです。心の動きが喉を震わせ声になるときも同じ。相手がいる声と孤独な声は違います。
何度も何度も繰り返し練習するのは、どんだけ他者の思いを受け止めてゆけるか、という一面にも繋がっているのかもしれないです。
誰かの眼差しの奥に浮かんでは消える言葉ならぬ言葉にカラダで接近しようとしているのかもしれません。あるいは、ない声を聴きながら踊るのかもしれない。
一つ一つの無言の響きに対して、カタチや運動という無音の声で、細い線をさがしてゆく。
カラダと他者が関わっているからこそ、動きはダンスになるのかしら。
求めるばかりですが、、、。
動きの渦中に現れるそのような何かが、私と他者のあいだにダンスを生じるのかも、と思うことがあります。
私自身には見えない、せいぜい淡く感じ取ることしか叶わない、しかし、他者の眼差しを信頼して受け入れてゆくと初めて垣間見える何か。
日常で認識できる身体というものが壊れて、出会ったことがない生き物が現れてくるような何か。
視線との交感から生じる身体。
交感のなかでしか存在しえない身体。
書でも、書いた人や思った人の心の動きが一つ一つの線にになって空間やその背景に流れる時間を出しているけれど、あれも、一種のダンスの痕跡かもしれません。誰に読ませるか、によって文字が線が余白が変わる。書きつらねた言葉の意味よりも、書いた字から伝わる何かは大きいです。心の動きが喉を震わせ声になるときも同じ。相手がいる声と孤独な声は違います。
何度も何度も繰り返し練習するのは、どんだけ他者の思いを受け止めてゆけるか、という一面にも繋がっているのかもしれないです。
誰かの眼差しの奥に浮かんでは消える言葉ならぬ言葉にカラダで接近しようとしているのかもしれません。あるいは、ない声を聴きながら踊るのかもしれない。
一つ一つの無言の響きに対して、カタチや運動という無音の声で、細い線をさがしてゆく。
カラダと他者が関わっているからこそ、動きはダンスになるのかしら。
求めるばかりですが、、、。