ひとりきりで独舞の稽古をして、そのあとフリークラスで人が集まる稽古をしたあとふと、速度、ということが胸につっかえました。

稽古のなかで、身体そのものと同時に、身体を介して、時間に向き合っている感じが、やはり強かったからでしょうか、きょうばかりならず、踊りと速度というものの関係に無性に興味がわきます。

素早く動いたからといって速度が宿るわけではなく、非常にゆっくりと動いていても、たとえ停止していても、極端な熱量とバランスが身体の状態に充満しているならば、素早く動いている以上の運動が身体に張り詰めて、速度というものが発生してゆく感覚が湧く、その瞬間に、あるいはその瞬間のカラダに、実に魅了されることがあります。

動機が何であれ、衝動や熱が極度に身体に充満してフル回転を生むとき、意味合いやら背景を吹き飛ばして、速度の花が咲いたような感じがすることがある。
非常に速く回転するコマが停止しているように見える、その美しさと似ているかもしれません。
それは、身体を巡る意識の動きの精密さから生ずるのかもしれません。

そこには数式の美しさや、草木のなかに見られる有機曲線の美しさにも共通する何かがあるように思います。もしかしたら速度は意識の精密さに宿るのかもしれないとも思います。

しかし人間は数式ではなく草木ではないから、身体の動きの精密さを、それらから得ることは外的な模倣以上には出来ません。

何が身体の動きを生み出すのか、人間の身体は何によって突き動かされるのか、、、。
そう考えるとき、僕は、速度の問題に当たるのです。

速度は時間に関係しています。そして時間は生に関係しています。人間には限りある生命がありますが、単に与えられた時間を消費しているわけではない。一瞬一瞬を期待や幻滅のなかに味わい、新しい一瞬を創り出そうとして、時間を膨らませて僕らは限りある生命時間を歩いている。生命の時間軸は、人間自身が生み出している側面もあると思うのですが、それがダンスでは鮮明に現れるのかもしれません。

受動的な、所与の時間軸に対して、能動的な、生産される時間軸がある。個体に与えられた時間は100年前後ですが、これは受動時間に過ぎず、同じ100年前後のなかでも生産される時間は無限だと思います。

ダンスは時間を圧縮することや遅延することができる、それがダンス特有の面白さかもしれないのですが、それは、速度を通じて、身体は時間そのものを生み出すことができる。という可能性が舞踊には秘められている、ということでしょうか。

時間に価値を与えるもの、それがダンス、あるいはダンスのなかに発生する身体の速度なのかもしれないなぁ、などと思いつつ。





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