オイリュトミークラスの日だった。

もう何か月練習しているかな。次第に把握できつつある音楽や振付に関わりながら、ところで、個々の感情が充分に膨らんでいるかどうか、あなたはそこにいますか、ということが気になり、気持ちの広がりを再認識するように稽古を進めた。

出そうで出ない感情がある、わかったつもりが実際には出来てこない動きがある。
胸につっかえた何か、奥歯に挟まったようなもどかしさ。それを、どう突破するか。
というような空気感のなか、稽古が熱を帯び始めたのを感じた。

オイリュトミーは様々な踊りのなかでは形式をとるものなので、見た目はかなり違うがバレエはじめ伝統舞踊の数々とも通じる意識や知の伝承を僕は感じている。与えられたカタチのキモチを見つけ出す面白さがある。形には精神が宿っているはずだから。また、即興や創作とは少し異なる身体との出会いがある。自分の発想とは別の何かに、身体で触れる面白さというか。
また、伝承されてきたものを繰り返し稽古しながら、その背景にある世界への眼差しを読み解いてゆく面白さもある。

しかし、動きや形が先行しすぎると、えらくツマラナイ小難しい稽古になって気持ちが広がらない。カタや方法に囚われて、せっかくの音楽や詩のなかで働く心や、人と人の呼吸や、感情が孤立してしまう。

感情面が他者に伝わるくらいに充分に解放されないと動きの面でも活き活きしない。
動きの面でも一定の達成感がないと感情面でも不完全燃焼が起きる。

ウゴキがオドリになるには、気持ちと運動が求め合うように連動してゆかないと、という、これが意外と言うは易し成るは難しなのだと思う。

そこを工夫しながら納得がゆくまで稽古するプロセスが、周期的に来る。苦労だけど、これが面白いんですよね、と言われた。うれしい。

やはり気持ちと身体が納得ゆくまで何かをやる、という喜びは、やってみないと分からない。そこを感じてもらえるのはダンスならではかもしれない。