レッスンでも舞台でも、関係ということによって身体が変わってゆく実感があります。

ダンスそのものが何かとの関係なしに生まれない性質のもの。

関係といっても極めて多様な関係性が踊りにはあるけど、その芯になってゆく最初の一つが講師と受講者個人だとかダンサーとスタッフとか、そういう人と人の信頼関係です。しかし「仲」が良いか悪いというやつとは全く別のもので、互いに何かを引き出してゆく勘とか相性を開発するという、一種の協力関係をうまく築けるかどうか、という感じが大事なのではないかと、それを含めて稽古とかダンスの身体というものが立ちあがってゆくと実感してしまうのです。

関係によって、リラクゼーションや緊張感が変わり、対話力やイメージ力が変わり、関わり合う面白さや興味の広がりや、ついには環境そのものを生成する力や継続するモチベーションも変わる。それらすべてが肉体に響きや揺さぶりをかけるのだから、ダンスの身体というのは、単にフィジカルな個体ではなく、関係すべてを孕んだ身体、つまり「あいだ、としてのからだ」「関係体」なのではないかと最近思います。だから、たとえ一人で踊っていても、それは一つのからだに関わるすべてが集約されて踊っているように思うのです。

ダンスへの気持ちを介して誰かと誰かが出会う、その第一印象に始まり、どんな刺激や受け止め合いを積み重ねてゆくか。

こうしましょう、ああしてみましょう。ということを一通り二転三転しながら、時を一緒に過ごすうちに、ようやく、互いがつかめて活かし合い始める時がくる。
そこを経て初めてレッスンとか作業と呼ぶものも意味を発揮してゆく感じがある。

何回か何年か分からないけれど、ある人間ある身体と「会い続けてみる」「関わり続けてみる」ということが、動きなり感覚なり踊りなりの、一番の稽古なのだろうと思うように最近確かになっております。

そんなことを、親しい友人に医師がいるのだけどその人と呑んでいるとき話したら、オマエ何を今更あたりまえじゃないか馬鹿だなぁ、と笑われてしまいました。彼が言うのは、カラダというのは人なのだから色々なのだ。同じカラダは無い。だから医者は人と人で関係しないと病気が治らない、機械や薬は沢山あるが、それらを選ぶのは医者と患者の共同作業なのだからというのです。深くうなずいてしまいました。一体、何年生きてきたのですか、と自分にきいております。