西荻窪クラスも始まりました。1/10の記録の一部を報告します。
「澁澤龍彦氏のテキストを味わいながら踊った。
若狭のお水送りと奈良の修二会・お水取りについて書かれた文章で、それは旅を巡る言葉でもある。
まず聴いてもらってから踊ってみるつもりだったが、朗読するうちに、一人また一人と知らないうちにカラダが動き始めている。そのおかげで、随分と自由な雰囲気が生まれ、最後には思いがけずのびのびとした踊りが展開した。
フリークラスだから初体験の人も、踊りたい時に来る人も、毎回欠かさずに来ることが出来るようになった人も、一緒に踊る。一人一人思いのままに探る楽しみと同時に、知らず知らず互いに刺激しあって個性的なものを出しているから、踊りも対話のように、どこか感じあっている。
同じ言葉を聴きながら、聴いて膨らみ流れ出す多様な踊りがあり、踊りと踊りがまた呼吸を交わしている。
言葉との出会いによって、出会いから膨らみ溢れる何かを交わすことによって、こんなにも身体は互いに変化を促しあうのだと感じ入った。
お水送りとお水取り。
若狭の地で清め送られた水が、地下水脈を通じて奈良の地に到達し、それを汲み取って観音に捧げる。春を呼ぶ密儀として、古来から伝わる。
人々の松明行列に始まる若狭のお水送りに対して、奈良では修二会の荒行を経た僧侶が振る巨大な松明の火の粉が人々の頭上に降り注ぐ。
火に清められた水が地底を旅して汲み取られ、再び火に結びつく。
ともに激しく美しい火と水の祭りである。
僕は若狭にはごく幼い頃に連れていかれたばかりだが残像はいまだ残っているし、東大寺のお水取りは毎年毎年行って大人になった。東京に住んで久しいがあの場の感触はカラダの奥に染み付いている。
クラスの参加者も皆ご存じで、若狭に行った人はその体験を話しても下さった。
澁澤龍彦さんの言葉はこの祭りにめぐりあった体験から広がりに広がって、火と水に関する中東の古い神話や、古代インドの哲学にまで飛躍を重ねる。そして私たちにとって根源とも言えるような生命発生の風景をさえ示唆してゆく。
氏の言葉の連なりは、意識の旅のようだ。
水は苦行を経て熱を帯び、やがて火を発生する。そのようなイマジネーションの展開は凄い。
踊り、体験や想像を話し合い、また踊り。
踊りは一種の旅だという言葉をトルコの旋回舞踊手から聞いたことがあるが、そのことを思い出した。」
さて、次回は1/24です。
「澁澤龍彦氏のテキストを味わいながら踊った。
若狭のお水送りと奈良の修二会・お水取りについて書かれた文章で、それは旅を巡る言葉でもある。
まず聴いてもらってから踊ってみるつもりだったが、朗読するうちに、一人また一人と知らないうちにカラダが動き始めている。そのおかげで、随分と自由な雰囲気が生まれ、最後には思いがけずのびのびとした踊りが展開した。
フリークラスだから初体験の人も、踊りたい時に来る人も、毎回欠かさずに来ることが出来るようになった人も、一緒に踊る。一人一人思いのままに探る楽しみと同時に、知らず知らず互いに刺激しあって個性的なものを出しているから、踊りも対話のように、どこか感じあっている。
同じ言葉を聴きながら、聴いて膨らみ流れ出す多様な踊りがあり、踊りと踊りがまた呼吸を交わしている。
言葉との出会いによって、出会いから膨らみ溢れる何かを交わすことによって、こんなにも身体は互いに変化を促しあうのだと感じ入った。
お水送りとお水取り。
若狭の地で清め送られた水が、地下水脈を通じて奈良の地に到達し、それを汲み取って観音に捧げる。春を呼ぶ密儀として、古来から伝わる。
人々の松明行列に始まる若狭のお水送りに対して、奈良では修二会の荒行を経た僧侶が振る巨大な松明の火の粉が人々の頭上に降り注ぐ。
火に清められた水が地底を旅して汲み取られ、再び火に結びつく。
ともに激しく美しい火と水の祭りである。
僕は若狭にはごく幼い頃に連れていかれたばかりだが残像はいまだ残っているし、東大寺のお水取りは毎年毎年行って大人になった。東京に住んで久しいがあの場の感触はカラダの奥に染み付いている。
クラスの参加者も皆ご存じで、若狭に行った人はその体験を話しても下さった。
澁澤龍彦さんの言葉はこの祭りにめぐりあった体験から広がりに広がって、火と水に関する中東の古い神話や、古代インドの哲学にまで飛躍を重ねる。そして私たちにとって根源とも言えるような生命発生の風景をさえ示唆してゆく。
氏の言葉の連なりは、意識の旅のようだ。
水は苦行を経て熱を帯び、やがて火を発生する。そのようなイマジネーションの展開は凄い。
踊り、体験や想像を話し合い、また踊り。
踊りは一種の旅だという言葉をトルコの旋回舞踊手から聞いたことがあるが、そのことを思い出した。」
さて、次回は1/24です。