山海の暮らし祭り踊りが深く関わってきたのは良く知られることだが、インドネシアなどではかなりの人が夕方からは踊りの稽古をする習慣があるようだし、日本でも昔は武家でも町人も踊りを学ぶのはごく普通のことだったという。踊りと稽古はいつも一体だと思う。
仕事からも家庭からも離れている時間、それでいて独りではない時間、
道具も何も要らないカラダひとつの時間が踊りの稽古にはある。稽古には味わいがある。
身体を動かし感覚を開いてゆく。言葉によらず他者との関わりを深めてゆく。心や考えを入れ替えてゆく。踊りの稽古は、さまざまなアクションや体験を味わいながら自らを柔らかくする。古くからの面白い文化だと思う。
しかし、どのような変化に結びつくかどうか以前に、稽古の意味が出てくるかどうかは、コンスタントに稽古しているかどうか、まず、そこが始まりかもしれない。と感じることも多い。
いま変化しているかどうか、成長しているかどうか、以上に、コンスタントに向き合うことが出来ているならば、それは本人が気づかなくとも結果的にミリ単位の変化成長を遂げている、そこが肉体だと思う。肉体だけでなく、さまざまな関係も繰り返し関わってゆくなかで次第次第に変化するのだと思う。
続けていないと、停滞や壁さえも決して見えはしない。続けていると踊りは踊り手の自分自身を教えてくれる。一過性の快感でおわるものでなく、次第に次第に自己というものも周囲というものも広がり深まる。そう言い切れる。
はじめは興味。しかし興味が続けば稽古も継続したくなり、稽古の継続は課題の発見を生む。課題の発見は研究の始まりを生む。そして研究の果ては、やがて表現への衝動を生むのだと思う。
そして、最初は単なる興味だったものが探求になり、いつしか表現せざるを得ない何かに変化して稽古は表現の喜びに変化してゆくのだと思う。
それは脳の覚醒のプロセス、自己を拡げるプロセスなのかもしれない。
と、時折思う。
稽古は自分というものに秘められ眠っている何かしらの力をパズルを解いてゆくように根気よく読み取る作業なのかもしれない。
身体には、分厚い書物のように知らない何かが沢山つまってあるのかもしれない。とも思う。
稽古なるものそのものに興味が尽きない。
仕事からも家庭からも離れている時間、それでいて独りではない時間、
道具も何も要らないカラダひとつの時間が踊りの稽古にはある。稽古には味わいがある。
身体を動かし感覚を開いてゆく。言葉によらず他者との関わりを深めてゆく。心や考えを入れ替えてゆく。踊りの稽古は、さまざまなアクションや体験を味わいながら自らを柔らかくする。古くからの面白い文化だと思う。
しかし、どのような変化に結びつくかどうか以前に、稽古の意味が出てくるかどうかは、コンスタントに稽古しているかどうか、まず、そこが始まりかもしれない。と感じることも多い。
いま変化しているかどうか、成長しているかどうか、以上に、コンスタントに向き合うことが出来ているならば、それは本人が気づかなくとも結果的にミリ単位の変化成長を遂げている、そこが肉体だと思う。肉体だけでなく、さまざまな関係も繰り返し関わってゆくなかで次第次第に変化するのだと思う。
続けていないと、停滞や壁さえも決して見えはしない。続けていると踊りは踊り手の自分自身を教えてくれる。一過性の快感でおわるものでなく、次第に次第に自己というものも周囲というものも広がり深まる。そう言い切れる。
はじめは興味。しかし興味が続けば稽古も継続したくなり、稽古の継続は課題の発見を生む。課題の発見は研究の始まりを生む。そして研究の果ては、やがて表現への衝動を生むのだと思う。
そして、最初は単なる興味だったものが探求になり、いつしか表現せざるを得ない何かに変化して稽古は表現の喜びに変化してゆくのだと思う。
それは脳の覚醒のプロセス、自己を拡げるプロセスなのかもしれない。
と、時折思う。
稽古は自分というものに秘められ眠っている何かしらの力をパズルを解いてゆくように根気よく読み取る作業なのかもしれない。
身体には、分厚い書物のように知らない何かが沢山つまってあるのかもしれない。とも思う。
稽古なるものそのものに興味が尽きない。