「舞台」を全力でやればやるほど、次へと渇く。
幕がはねて観客が帰ったとたん、劇場は急にとても暗く広い穴になるのだが、そこにスッカラカンになった身体が残されたまま、底知れない穴のなかで、ここで終わりには出来ない、という気が強烈に湧く。
やれるだけやり尽くす現場にともに皆さまがいられて、その人人人ひとり一人ひとりの中で「終わるわけがない何か」が「始まって」いるか、と思うとき、幕は切れる。
その瞬間に感じた何かを如何に大切にしてゆくか、そこは明らかに「次」の発火点となる。
目覚めよ、という落雷のように、演者の脳の細胞は、拍手や完全暗転に再び叩き起こされて幕切れるのかもしれない。
一つの舞台で出会い得た視線は、踊り手にとって直後の稽古に生きたまま続いてゆく。
劇場で交わった肉体と視線が、内部でそのまま絡み続けて次の踊りを産もうとする。
(ダンスは関係から始まる)
僕はソロダンサーだから踊る相手/関係者としての「客」を強く意識せざるを得ないのかもしれないが、舞台を続けていて実感として、ある。
原点に戻る、という表現があるが、舞台のたびに新しい関係が生まれるのだから、原点もまた舞台のたびに新しく発生する。
(ダンスの身体は「再受肉」を繰り返す身体だ)
演者も観客も生きているあいだにしか「ともにある」ということは出来ないが、生きている限り何度でも「出会い続け」ることができる。
ともに、今を、呼吸し合い、刺激し合う、ということが舞踊には出来る。
今、とは結論のない深呼吸だ。言葉なんかに成り得ないまま、何かが明滅し始めたなら、だから、スグ次を始めるしかない。ピンぼけのまま熱をともに走りたい。
(切断と結合、連続と非連続は、互いに助け合う)
「舞台」は一回一回が猛スピードで終わるが、「踊り」そのものは決して終わらないのだろう。
生きて在るかぎり「まだ始まってさえいないもの」が山ほどあるからだ。
いつも未だ生まれていない「新しいカラダ・空気・時」というものが必ずあるはずで、それを出産してゆく責任というものがダンサーにはあるように、やたら思う。
「からだ」はダンスにとって、すでに在るもの、であると同時に、未だ誕生していないもの、である。
そのうえで、おどる。
「いま湧き、いま躍る、なにか」に、全て委ねて、ゆく。ゆこう。
まもなく新しい年が来る。
幕がはねて観客が帰ったとたん、劇場は急にとても暗く広い穴になるのだが、そこにスッカラカンになった身体が残されたまま、底知れない穴のなかで、ここで終わりには出来ない、という気が強烈に湧く。
やれるだけやり尽くす現場にともに皆さまがいられて、その人人人ひとり一人ひとりの中で「終わるわけがない何か」が「始まって」いるか、と思うとき、幕は切れる。
その瞬間に感じた何かを如何に大切にしてゆくか、そこは明らかに「次」の発火点となる。
目覚めよ、という落雷のように、演者の脳の細胞は、拍手や完全暗転に再び叩き起こされて幕切れるのかもしれない。
一つの舞台で出会い得た視線は、踊り手にとって直後の稽古に生きたまま続いてゆく。
劇場で交わった肉体と視線が、内部でそのまま絡み続けて次の踊りを産もうとする。
(ダンスは関係から始まる)
僕はソロダンサーだから踊る相手/関係者としての「客」を強く意識せざるを得ないのかもしれないが、舞台を続けていて実感として、ある。
原点に戻る、という表現があるが、舞台のたびに新しい関係が生まれるのだから、原点もまた舞台のたびに新しく発生する。
(ダンスの身体は「再受肉」を繰り返す身体だ)
演者も観客も生きているあいだにしか「ともにある」ということは出来ないが、生きている限り何度でも「出会い続け」ることができる。
ともに、今を、呼吸し合い、刺激し合う、ということが舞踊には出来る。
今、とは結論のない深呼吸だ。言葉なんかに成り得ないまま、何かが明滅し始めたなら、だから、スグ次を始めるしかない。ピンぼけのまま熱をともに走りたい。
(切断と結合、連続と非連続は、互いに助け合う)
「舞台」は一回一回が猛スピードで終わるが、「踊り」そのものは決して終わらないのだろう。
生きて在るかぎり「まだ始まってさえいないもの」が山ほどあるからだ。
いつも未だ生まれていない「新しいカラダ・空気・時」というものが必ずあるはずで、それを出産してゆく責任というものがダンサーにはあるように、やたら思う。
「からだ」はダンスにとって、すでに在るもの、であると同時に、未だ誕生していないもの、である。
そのうえで、おどる。
「いま湧き、いま躍る、なにか」に、全て委ねて、ゆく。ゆこう。
まもなく新しい年が来る。