冬至を経たのに、きょうは奇妙に暖かかったが、それでも朝がたは冬の光の直線が健在だった。
僕は冬が好きだが、寒いのが好きというより、冬の光が好きなのだ。
力強く鮮やかな冬の光は僕の夢想するダンスのオーラに限りなく親しい。
動き尽くし立ち尽くして肉が、いや心さえも消えて冬の光のように真っ直ぐに成りたいという妄想と、そうは問屋が下ろさぬ現状されど生き物ゆえの現在一瞬をいかに受け止め得るかという、これは器の問題かもに困惑し分裂しながら、また今日の踊りを踊って眠りに向かう。
しかし、寒く冷却した中で、真っ直ぐな光を受けて、木も犬も猫も人も、ピッと立っている。その姿は冬景色としてピカイチで、ああ、生きているものは、みんな自力で立っている。僕らも、そうだ。そのはずだ。と、何故か感慨が年々つよくなる。
立ち方。
その勢いに触れると、過去も未来もなく、ただ、ただただイマの貴重さが極まって感情が充満する。
立っている、というのは光っている、というのと同じかもしれない。
立ち方は、その命の光り方なのかもしれない。
生き物が自分の力で立つ、というのはどういうことなのだろう、と、すごく思う、冬の迷想。さて明日は。
僕は冬が好きだが、寒いのが好きというより、冬の光が好きなのだ。
力強く鮮やかな冬の光は僕の夢想するダンスのオーラに限りなく親しい。
動き尽くし立ち尽くして肉が、いや心さえも消えて冬の光のように真っ直ぐに成りたいという妄想と、そうは問屋が下ろさぬ現状されど生き物ゆえの現在一瞬をいかに受け止め得るかという、これは器の問題かもに困惑し分裂しながら、また今日の踊りを踊って眠りに向かう。
しかし、寒く冷却した中で、真っ直ぐな光を受けて、木も犬も猫も人も、ピッと立っている。その姿は冬景色としてピカイチで、ああ、生きているものは、みんな自力で立っている。僕らも、そうだ。そのはずだ。と、何故か感慨が年々つよくなる。
立ち方。
その勢いに触れると、過去も未来もなく、ただ、ただただイマの貴重さが極まって感情が充満する。
立っている、というのは光っている、というのと同じかもしれない。
立ち方は、その命の光り方なのかもしれない。
生き物が自分の力で立つ、というのはどういうことなのだろう、と、すごく思う、冬の迷想。さて明日は。