自省を込めつつ、なのだけど、、、。

静まりのなかに人が立つ。
居る。
ということから踊りは始まる。

誰かが居る。

いや、その誰かの内部の子どもが、その誰かの内部の動物が、居る。

いや、居る筈がない何かさえもが、居る。

凄かった、と思える踊りにはそんな感覚が確かに、ある。

居方。
なにものかが居ることの確かさ。
それは時にショッキングだ。

(はんたいに、曖昧な居方をされると異様な虚しさや徒労感に満たされてしまう。早く、終わらないかな、やっと、終わった、ああ、何のために僕はここに、居たんだろう。なんて。)

踊る人の居方は、観る人の居方にも強く影響するのだろう。人と人。

良かった、凄かった、
と思う踊りは、居る鮮やかさ、居たものが居なくなった鮮やかさ、そこに独特な手ごたえがあるのだ。
そして、居なくなったところに、ハタと広がる時空がある。
その味わいは特殊で、素敵な踊りの格別さだと思う。

踊りが始まる前の、つまり誰かが居る前の時空と、踊りのあとの時空の落差が好きで、劇場に通ってきた感さえある。

素敵な居方であればあるほど、あとに広がる時空は得難い瞬間だ。
熱の名残りが、まるで言葉にならない空気感を生み出す。

素敵な踊りを観た夜は、いちばん最後に席を立つ。
踊りが終わり、終わったあとの拍手をきき、空舞台が残り、次第に人々が去り、がらんとした一瞬まで、味わいたくなる。