分かり合う前に、感じ合うこと。
そんな時間を大切にしたいなぁ、
しているかなぁ僕は、と、
時々に思えて仕方がない。

これはこう、と、分からなくとも、ただ五感で感じとったそのままが、カラダのどこかに入って、いつしか解きほぐされてゆくことがある。

踊りをおどる、踊りをみる、ということだって、分かり合うというよりも、感じ合う、という時間に他ならない気がする。
分かるも分からぬもないまま、
五感から入って胸を刺すものやら肚の底に収まってゆく何かを、
分かろうとするほどに欠落してしまう何かを、
舞台で、客席の闇で、ひたすら感じている。
より深くより広く何かを感じるために、
雑事や付き合いから離れて、
ひととき一人で、五感を開いて、
人は劇場の闇や光の中に身を任せるのかもしれないなぁ。

そんなことを、ぼんやりと考えていたら、ふと、少し前に見たテレビドキュメンタリーを思い出した。それは、茶事の半澤鶴子さんという方の活動を伝えるものだった。

お茶と料理の道具を積んだ車を自ら運転して日本中を走り、出会った場所で出会った人と、土地の恵みを料理して、ともに味わい語らい合う、ということを、ひたむきに続けていられる。

風情ある建物はもちろん、田畑のそばで、湖畔で、ときには路傍でさえ茶事を開いてゆく。そんなご活動の四季を映像は伝える。

ここという場所を見つけ、土地の人に茶事を開こうと熱く働きかける。やりましょう、となったときの彼女の笑顔は少女のようにキラキラして美しく、自然のなかで開かれる茶事の場は優しく実に美しかった。

魚や野菜に対しても話しかけるようにして、料理をされていた。
それは、命をつなぐために他者の命に触れる、厳粛な一瞬のようだった。
いただきます、というのは、いのちをいただくという意味なのだと教わったことがあるが、それを思い出した。
そのように丁寧に心を尽くした料理を、やはり丁寧に出会った人と味わい喜び、そして一服の茶をたのしんで見送る。
空の下、大地の上で、陽の光を浴びながら行われる茶事の、その一部始終が、魂の入れ替わりのプロセスのように感じられた。

私の世界は狭かった。井の中の蛙で大海を知らない。でもね、空は仰げる。

半澤さんの、例えばそんな一言に、例えば語らう瞳に、感じ入り映像を追いながら、これは踊りでも、根っこのところでは、なにか共通するものがあるのではないかと感じた。

人と人とが出会って、ひとときを大切に感じ合う。共に過ごし、別れの余韻を味わい、また一人一身に還る。

一期一会。独座観念。というのか。

深く感じ合う、過ごし方だと思う。

沢山の人にまみえながら暮らす。沢山の人が沢山の価値観を持って行き交い、息を交わす。

人と人、というのは、別なる命と命なのだろう。
そんな当たり前のようなことを、果たして僕はきちんと受け止めているだろうか、と、なぜか思う。

出会う人を感じ、感じることを繰り返して、愛おしみを学んでゆく。
そんなふうに、してきただろうか。

さまざま思う。思いながら我にかえれば、ああ未だ、まだまだ何も出来ていないなぁ、と溜息が漏れる。