踊ったそばから消えてゆく。これは、と思える瞬間は、二度は来ない。
いくらカタチやキモチを覚えても、二度目はもう別のものになる。
そんなことを踏まえてこそこの人は踊り、今この瞬間を味わい尽くそうとしているんだなぁ、という真摯さを、ダンスクラスの稽古から感じとっていた。いい時間に会えた。
時と接触すること。それは人と接触することにも関係しているのだろう。
人は一人一人が特別な時の紡ぎ手でもあるから。
公演でも、踊りの場合は現場の力が最も大切に思う。目の前に人を感じて、そこに向き合うなかで初めて出るものがあり、そしてたちまち消える、その刹那の体験に比するものは中々ない。
稽古で、こんなものではない、こんな程度でなるものか、と拮抗し続けて劇場に辿りついた、そして、、、、。というのが皆様との逢瀬つまり本番の幕開きになる。
そして、そこで生起するすべてが作品になる。稽古で積み重ねたり試行錯誤しているのは作品に至る原因力や衝動や体力や熱を発生させるエンジンシステムみたいなものなのかもしれない。それがブルルと震えて何を発するかは、観手と出会う夜、その一夜が賭けなのだ。
踊りの舞台の面白いところは、それが虚構でなくナマの現実だということなのだろう。
観手の方から聞く一声は大抵「カラダ」と「空気」と「時間」だ。つまりそこに在った生々しいもの。
踊りはいつも変化の只中そのもので、全てが発生点でありながら消失点であることだったり、完結し得ないということだったり、という、いわば「過程の中にある」ということかなと、よく思う。
踊る人も観る人も呼吸をしていて、それがフと一緒になったり、スッとずれたり、揺れや隙間をもったりしながら、近づいたり離れたりする。
ほかのものにもあるかもしれないけど、生理と生理が向きあって感覚を働かせている踊りの場には顕著なんじゃあないだろうか。
いろんなものやことがうごいている只中にいることを体感出来るような、ちょっと呼吸の触媒のようなダンスができないものかと、最近思う。
我の強い僕ら人間に対して猫や鳥たちはとてもそういうことが上手だとも思う。
彼らは何も語らないのに僕らの心に沢山の物語や音楽を連れてくる。
はいわかりました、わかりません、というような居方とは決定的に違う立ち居振る舞いを、彼らはするなぁと思う。
身体は生きている限り始まりに戻ることが出来ないし、最後に到達することも出来ない。
踊りもそうだが、身体というのが根っから決まったものでなく何かの過程なのだろう。そんなことを稽古しながら感じる。たぶん踊りなるものがそう感じさせるのだろう。
過程のなかにありありとあるから、予感も襲ってくるし過去も残響する。時間紡ぎの中間点に身体はいつもある。
そして生殖したり伝達したりして、個体を越えてゆくこともできる。
一つ一つの身体はいつも変化し無数に拡散してゆくようにも思う。
結びつきや溶けあいを前提にして、生命は「別々に一緒に」ある、ということなのだろうか。
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↓↓新たな舞台に取り組んでいます。↓↓
STAGE INFO. 櫻井郁也ダンスソロ新作公演=10月29〜30日開催!

くわしい内容やチケット予約など、上記サイトをご参照ください。
いくらカタチやキモチを覚えても、二度目はもう別のものになる。
そんなことを踏まえてこそこの人は踊り、今この瞬間を味わい尽くそうとしているんだなぁ、という真摯さを、ダンスクラスの稽古から感じとっていた。いい時間に会えた。
時と接触すること。それは人と接触することにも関係しているのだろう。
人は一人一人が特別な時の紡ぎ手でもあるから。
公演でも、踊りの場合は現場の力が最も大切に思う。目の前に人を感じて、そこに向き合うなかで初めて出るものがあり、そしてたちまち消える、その刹那の体験に比するものは中々ない。
稽古で、こんなものではない、こんな程度でなるものか、と拮抗し続けて劇場に辿りついた、そして、、、、。というのが皆様との逢瀬つまり本番の幕開きになる。
そして、そこで生起するすべてが作品になる。稽古で積み重ねたり試行錯誤しているのは作品に至る原因力や衝動や体力や熱を発生させるエンジンシステムみたいなものなのかもしれない。それがブルルと震えて何を発するかは、観手と出会う夜、その一夜が賭けなのだ。
踊りの舞台の面白いところは、それが虚構でなくナマの現実だということなのだろう。
観手の方から聞く一声は大抵「カラダ」と「空気」と「時間」だ。つまりそこに在った生々しいもの。
踊りはいつも変化の只中そのもので、全てが発生点でありながら消失点であることだったり、完結し得ないということだったり、という、いわば「過程の中にある」ということかなと、よく思う。
踊る人も観る人も呼吸をしていて、それがフと一緒になったり、スッとずれたり、揺れや隙間をもったりしながら、近づいたり離れたりする。
ほかのものにもあるかもしれないけど、生理と生理が向きあって感覚を働かせている踊りの場には顕著なんじゃあないだろうか。
いろんなものやことがうごいている只中にいることを体感出来るような、ちょっと呼吸の触媒のようなダンスができないものかと、最近思う。
我の強い僕ら人間に対して猫や鳥たちはとてもそういうことが上手だとも思う。
彼らは何も語らないのに僕らの心に沢山の物語や音楽を連れてくる。
はいわかりました、わかりません、というような居方とは決定的に違う立ち居振る舞いを、彼らはするなぁと思う。
身体は生きている限り始まりに戻ることが出来ないし、最後に到達することも出来ない。
踊りもそうだが、身体というのが根っから決まったものでなく何かの過程なのだろう。そんなことを稽古しながら感じる。たぶん踊りなるものがそう感じさせるのだろう。
過程のなかにありありとあるから、予感も襲ってくるし過去も残響する。時間紡ぎの中間点に身体はいつもある。
そして生殖したり伝達したりして、個体を越えてゆくこともできる。
一つ一つの身体はいつも変化し無数に拡散してゆくようにも思う。
結びつきや溶けあいを前提にして、生命は「別々に一緒に」ある、ということなのだろうか。
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STAGE INFO. 櫻井郁也ダンスソロ新作公演=10月29〜30日開催!

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