ジョン・ケージ作曲『4分33秒』
というのがあるが、ご存知の通りピアノを弾かないピアノ曲でもある。わずか4分半だが、演奏会場に集う人々が沈黙に耳を傾けあう。
ピアノの前に座り、楽譜を置き、その指定に沿って3つの楽章を「演奏」するが、自分で音を出すことはしない。1:休止、2:休止、3:休止。楽譜には、そう書かれている。この曲にあって演奏とは、居ることであり、しじまを聴くことであり、沈黙と測りあうことである。時の体験ということにも通じるかもしれない。
音を鳴らさない演奏ゆえ、コンサートの「生演奏」でしか味わえない曲でもある。ユーモアや、いたずらっぽさも感じる。事前には何もないという面白さ。そこから広がることは、未だ多い。禅を学んだケージは自ら積極的に表現するばかりでなく、音楽そのものを、環境に溢れる様々な音の受容体験として捉え直したのかもしれない。
ケージには、これと対照的に鳴り続ける音のための作品もある。ASLSP (As Slow as Possible) と題されたその曲は、同じ音を何年も演奏し続けるオルガン音楽だ。ドイツ、ハルバーシュタットのブキャルディ教会で2001年に始まった演奏は、639年以上の期間をかけるよう指示され2640年9月の演奏終了を目処に演奏され続けている。こうしている現在もドイツでは音が鳴り続けている。
聴く喜び、そして聴こえるものに寄り添い、身ごと共に揺れ動く喜びを、音と踊りは僕らに与えてくれるが、音というのは偶然の出会いだったりすることも多いし、偶然の出会いから自然に心身がオドリ出す瞬間は、やはり踊りならではの体験で、フトした何かの訪れにスッと身を、そのうごきを、差し出し得るカラダが、ダンスの稽古から熟成されるように思えて仕方がない。
偶然を感じる喜び。
それは外側に出会う喜びでもあり、他者に心を傾ける面白さにも通じるし、自らをほぐし自らを開くことにも通じていると思うが、
偶然、ということの美しさを教えてくれた一人が、例えばジョン・ケージだった。
というのがあるが、ご存知の通りピアノを弾かないピアノ曲でもある。わずか4分半だが、演奏会場に集う人々が沈黙に耳を傾けあう。
ピアノの前に座り、楽譜を置き、その指定に沿って3つの楽章を「演奏」するが、自分で音を出すことはしない。1:休止、2:休止、3:休止。楽譜には、そう書かれている。この曲にあって演奏とは、居ることであり、しじまを聴くことであり、沈黙と測りあうことである。時の体験ということにも通じるかもしれない。
音を鳴らさない演奏ゆえ、コンサートの「生演奏」でしか味わえない曲でもある。ユーモアや、いたずらっぽさも感じる。事前には何もないという面白さ。そこから広がることは、未だ多い。禅を学んだケージは自ら積極的に表現するばかりでなく、音楽そのものを、環境に溢れる様々な音の受容体験として捉え直したのかもしれない。
ケージには、これと対照的に鳴り続ける音のための作品もある。ASLSP (As Slow as Possible) と題されたその曲は、同じ音を何年も演奏し続けるオルガン音楽だ。ドイツ、ハルバーシュタットのブキャルディ教会で2001年に始まった演奏は、639年以上の期間をかけるよう指示され2640年9月の演奏終了を目処に演奏され続けている。こうしている現在もドイツでは音が鳴り続けている。
聴く喜び、そして聴こえるものに寄り添い、身ごと共に揺れ動く喜びを、音と踊りは僕らに与えてくれるが、音というのは偶然の出会いだったりすることも多いし、偶然の出会いから自然に心身がオドリ出す瞬間は、やはり踊りならではの体験で、フトした何かの訪れにスッと身を、そのうごきを、差し出し得るカラダが、ダンスの稽古から熟成されるように思えて仕方がない。
偶然を感じる喜び。
それは外側に出会う喜びでもあり、他者に心を傾ける面白さにも通じるし、自らをほぐし自らを開くことにも通じていると思うが、
偶然、ということの美しさを教えてくれた一人が、例えばジョン・ケージだった。