ある人の踊りの公演のあと、その人が少し話をされた。直前まで体験していたダンスの余韻が抑えられるどころか、その声や一言一言の力強さが、身体の放ったエネルギーの余韻に絡まって、全く新しい何かが始まるような場の力が渦巻いた。思えば、声もカラダであるのは確かだし言葉とは魂なのだ。全身全霊で踊り、力強く話す。その姿に心が熱くなった。
以前、ある研究者からの取材を受け、踊りや創作への考え方、僕がダンスの稽古にオイリュトミーを取り入れて身体やダンスにどんな影響があったか、ダンスと音感の相互作用をいかに考えるか、身体にとって言葉や音楽はどんな影響力をもつか、などなど、沢山の質問をいただき、自身の踊りの軌跡を振り返る機会を得た。また、話しながら、新しい舞踊衝動が強く湧き上がるのを感じた。
話す、ということの重要さは普段から痛感している。口に出し、文字に書き、他の人の言葉に受け答えして、それで初めて動き出すものがあるからだ。
ダンスは言語表現ではない。しかし、直接に語らないからこそ、ダンサーの心に蓄積されている言語が表情や立ち居振る舞いの細部に反映する気がしてならない。
実際、素晴らしいダンサーは素晴らしい文章を書くなあと思うことが多い。グラハムも、土方巽も、ベジャールも、深い文章を書く。
ニジンスキーやアルトーやダンカンのパフォーマンスを今は観ることができないが、彼らが遺した彼ら自身の言葉は、ショッキングなほど雄弁だ。
レッスンでも、話してから踊るほうがイメージも膨らみ良く踊れるという方がしばしばいられる。言葉に耳を傾け、自らも言葉を発する。そうすることで内面が動き始めるのだろう。
思いを呼吸に乗せて他者に投げる時、話しながら自らの声を聴く時、他者が話す声を傾聴するとき、魂の内部にまどろむ世界が少しづつ姿を明らかにする。
言葉は力だ。
話すこと、言葉を通して心を動かすことも踊りの一部ではないか、そう思う。
以前、ある研究者からの取材を受け、踊りや創作への考え方、僕がダンスの稽古にオイリュトミーを取り入れて身体やダンスにどんな影響があったか、ダンスと音感の相互作用をいかに考えるか、身体にとって言葉や音楽はどんな影響力をもつか、などなど、沢山の質問をいただき、自身の踊りの軌跡を振り返る機会を得た。また、話しながら、新しい舞踊衝動が強く湧き上がるのを感じた。
話す、ということの重要さは普段から痛感している。口に出し、文字に書き、他の人の言葉に受け答えして、それで初めて動き出すものがあるからだ。
ダンスは言語表現ではない。しかし、直接に語らないからこそ、ダンサーの心に蓄積されている言語が表情や立ち居振る舞いの細部に反映する気がしてならない。
実際、素晴らしいダンサーは素晴らしい文章を書くなあと思うことが多い。グラハムも、土方巽も、ベジャールも、深い文章を書く。
ニジンスキーやアルトーやダンカンのパフォーマンスを今は観ることができないが、彼らが遺した彼ら自身の言葉は、ショッキングなほど雄弁だ。
レッスンでも、話してから踊るほうがイメージも膨らみ良く踊れるという方がしばしばいられる。言葉に耳を傾け、自らも言葉を発する。そうすることで内面が動き始めるのだろう。
思いを呼吸に乗せて他者に投げる時、話しながら自らの声を聴く時、他者が話す声を傾聴するとき、魂の内部にまどろむ世界が少しづつ姿を明らかにする。
言葉は力だ。
話すこと、言葉を通して心を動かすことも踊りの一部ではないか、そう思う。