5月17日、きょうはエリック・サティの誕生日だ。生誕150年になる。

サティの音楽の、音と音の「あいだ」が好きだ。
それは間(ま)とも違う、なんだか裂け目のようでもあるし、戸惑いのようでもある。音と音の「あいだ」のたびに、ふと目が覚める。一曲のなかに何度も新しい朝が来るように感じる。

大抵の音楽には通底する原音というか一念みたいなものを感じるが、サティの音楽は、それに囚われないで分裂したりする、思い込みから解き放たれた自由さがあるようだ。気紛れで、まとまることがなく、それでいて滞ることもない。いくつもの魂が浮遊して行き交うようだ。音の一粒一粒が見知らぬ人と人のように別々の響きをポツリと落として通り過ぎてゆく。
自分の音楽が邪魔にならないようにとか家具のようでありたいと語ったのは有名だが、とても共感できる。

のめり込んで聴く音楽もあるが、それとは別の響き方をしてくれる音楽もある。孤りにしてくれる音楽。放っておいてくれる音楽。介入してこないで、ただそこに居てくれる音楽。

処女作『グロテスクなセレナーデ』を始め『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』とか『胎児の干物』とか『裸の子供たち』とか、サティは作品に面白いタイトルをいっぱいつけたが、
その言葉と音楽との絶妙な違和感とか距離感が、僕は好きだ。サティは音楽ばかりじゃなくて、ずいぶん言葉を残している。

「経験は麻痺のひとつの形」という言葉にも惹かれる。この言葉を、草木を見ていて思い出すことがある。草木は毎年枯れて、毎年新しく再生する。草木は、枯れることで一年の経験や慣れを捨てるのだろう。いま緑が日々勢い強くなってきた。緑色という色が、いつも冴え冴えしい気持ちにしてくれるのは、絶えず何かが入れ替わってゆく色彩だからなのか。

「ヴェクサシオン」という一曲は特に好きで、しばしば思い浮かべたりする。短いフレーズを弾いて少し休む、それを何度も何度も反復してゆく。840回の反復をサティは楽譜に指定していて、真面目に弾くと18時間ほどもあることになる。この曲は、どこかさっきの言葉とも重なる気がする。
同じ音を弾いて同じだけ休む。しかしそれらは一回一回が新しい経験で、新しく何かが入れ替わってゆく。
同じ事を続けているようでも、本当はいつでも初めての瞬間である。初めてだということに気づきさえすれば、、、。