僕が東京に引っ越してきたのは1983年。その5月に「我に五月を」と歌った寺山修司が天国に行った。踊りの土方巽は池袋のスタジオ200で東北歌舞伎計画なる舞台を展開していたが自らはなかなか踊らなかった。鈴木忠は利賀村にロバート・ウィルソンやタデウシュ・カントルを呼んで強風が吹いた。ヨーゼフ・ボイスが来日し、ミヒャエル・エンデの童話が売れに売れていた。

蜷川幸雄さんが関わった舞台を初めて観たのは、そんな頃だった。唐十郎の紅テント「住み込みの女」に蜷川幸雄の名を見た。雨の花園神社、激しい芝居、びしょぬれの観客。そこに突入したブルドーザーから李麗仙が現れて機関銃のような言葉と力が暴発した。芝居を観るのは街を呼吸することに近かった。その後、蜷川氏が演出した「王女メディア」をやはり花園で観たとき、メディア役の平幹二朗さんに何かが憑依したようで鳥肌がたった。この演技を引き出した蜷川幸雄とは、どんな人なのかと強い興味を感じた。過去と現在が、人と人が、関わることからこの一瞬一場が生まれている、そこにいま居合わせている。そんなリアリティーがあった。「個の力」から「関係の力」へ。そんなシフトチェンジの匂いを、蜷川幸雄の舞台は放っていたように思う。

近年では、埼玉ゴールドシアターの試みに、強い魅力を感じていた。年齢を重ねた肉体から、記憶や経験のみならず新しい希望のエネルギーを引き出してゆく作業は、演劇とかダンスとかいう境い目を越えて、同じ時代を懸命に生きる共感がふつふつと湧いた。生き様を乗せる舞台、そんな感触が凄かった。

公演活動はもちろん「千のナイフ」をはじめとするエッセイや発言、それらは俳優でもなく直接の関係を持たない僕にとっても稽古の励ましになった。

関わる人。背を押す人。そんなイメージが蜷川幸雄さんに、あった。こわくて優しい人、嘘を許さない人、一歩先を歩く人。言わば日本の舞台の「お父さん」だったが、おくる日が来てしまった。

5月12日、蜷川幸雄が天国に行った。悲しいが、しんみりしていると叱られそうだ。僕らは追悼の花よりも明日の世界に手向ける花を用意しなければならない。明日へ。蜷川さんの志を、つないでゆかねばと思う。

※いま埼玉芸術劇場には献花台・記帳台が設置されている。6月11日までとのこと。