5月5日、作曲家の冨田勲さんが亡くなられたそうだ。
新緑のなか、それも子どもの日に召されるなんて、まるでご活躍の様子を天使たちが観ていたのかしらと思ってしまう。徳というのだろうか。「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」の主題歌を思い出す。幼い頃それらを聴いて育ったから、、、。

シンセサイザーという言葉を広めた人でもあった。PCなんて想像してもいなかった頃、電子音といえば機械音に等しかった頃、そのオーケストラに比肩しうるような響きは世を風靡した。ホルストの「惑星」組曲、ドビュッシーの「月の光」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、、、次々に発表された冨田勲のエレクトリックサウンドは革命的だった。すでに世界は危機的で、ジョージ・オーウェルやスタンリー・キューブリックは未来や文明の暴走に深刻な警鐘を鳴らしていた。が、冨田さんの音楽を聴いていると、なぜか少し前向きになれた。音楽すなわち調和の知を通じて、テクノロジーと人間の幸福な関係について、とても考えていらしたのではないかと思えてならない。

晩年に発表されたのは、合唱とオーケストラとヴォーカロイドによる大規模なコンサートだった。以下は当時このブログに書いた感想の一部だ。
「幻想四次、宮澤賢治がそのように表したもうひとつの空間世界。天界に重なり死界とも重なり、されど何かちがう想像の彼方。想像は絶えず更新され結びつきあい膨らみ拡がり続けるディスタンスでもある。(ヴォーカロイドの)剥がされた雲母の一枚が妖しく光るような踊り、人間には無い質感だ。未来のイブ。アンドロイドは電気羊の夢を見るか。さまざまな人造天使の記憶がまたひとつ更新される。コケティッシュなボディになびく髪は平面図の人工波。妖気少し怖くもある。しかしツールとしての存在を宿命された天使のそこはかとない哀しみを漂わせて、初音はジンタを踊る。(中略)初音ミクの不可思議な響きと踊りを受けて、こんどは生身の人々が歌う。(中略)人間の歌がクッキリと輪郭を現わにする。なぜ人は唄うのか。人々は踊らない。じっと立って声を噛みしめるように静かに歌い唄う。じっと立って天地を結ぶことが最大の踊りであると、沢山の人がしっかり立っている。あの震災がやはり重なる。そしてやがて、天国の巡礼の歌がオーケストラから溢れでる。パイプオルガンに、地球が映し出される。人は歌い続ける。」
宮沢賢治の世界を主題としたオペラだった。人間とテクノロジーの関係を探し求めるコンチェルトにもきこえた。
巨大スクリーンのなかでヴォーカロイドは魂を求めて歌い踊ったが「わたしは、はつねみく、かりそめの、ぼでぃー、ぱそこん、からは、でられない、でられない、でられ~ない~・・・」という歌うその声は愛らしさと憂いが複雑に混合されて少し哀しかった。それは機械の哀しみというより、機械を通じて溢れ出た人間の潜在意識のようでもあった。確かに存在しているのに、どこか不確かさを感じてしまうような感覚、いわば「不在の私」が発する幽かな声にも感じた。

冨田勳さんの耳は、どんな未来を聴いていたのだろうか。
84歳でいらした。感謝とお祈りを、、、。