音の粒と音の粒が接触して空間にわだちを生む。わだちとわだちが干渉し滲み合いながら、空間全体が揺らぎ、いつしか穏やかに沈静してしじまを生む。しじま、つまり新しい始まりの場所。ことの起こりは鎮めの始まり、鎮まりの訪れはことの起こりの始まり。そんな連鎖が、いつしか万華鏡の中に入っているような、限りない感覚を生み出してゆく。

稽古でバッハのソナタを踊っていると、そんな感覚が湧いて仕方がない。

ベートーヴェン、モーツァルト、シェーンベルク、スクリャービン、バッハ、舞台と舞台のあいだにしばしば稽古する/還ってゆく、故郷のような音楽があるが、そのなかでもバッハの幾つかのインベンションやソナタには、踊りながら例えば蝶の羽音を聴いているような気分になることがある。

もちろん蝶の羽音は可聴域には遠いから、それを聴いているというのは比喩に過ぎないが、バッハの音楽を身体で追いかけていると、ある細やかな運動が音の響きに、音の響きが空間の波紋に、変化してゆくようなイメージ体験があるのだ。

レッスンでもバッハを取り上げることは多く、例えば水曜夜のオイリュトミークラスでは比較的長い期間をかけて無伴奏ソナタを稽古していて、参加者の動きが音楽に馴染んでくると次第に解放的になって明るさを帯びてゆくのを感じることが多い。響きを全身で呼吸してゆくと、音楽のもつエネルギーも身体に宿ってくるのだろうか。

一粒の音が響きわたりながら空間や時間を形成してゆく。何かが起きること、何かが生まれること。そのプロセスが、バッハのソナタには非常に強く現れているのかもしれない。

元は無数であるはずの音を、わずか12音に切り詰めた音階。バッハは、その組み合わせの妙という以上に、その一粒一粒の音の結晶を極限にまで響かせ輝かせているようにも感じる。
音階なるものを人はなぜ生み出したのだろうか。その秘密を知りたくなりもする。同時に、その音階の響きによって、バッハは楽器という人工物からその元である樹木や動物の骨や体毛の声を聴き取ろうとしているようにも思えてくる。数学的なのに深く温かい。

タルコフスキーの映画に宇宙船の無重力状態に浮かぶ人や燭台にバッハの音楽が流れる情景があり、それは孤独な魂が胎内の温かみを回想するように切なかった。

バッハの音楽に身を任せていると、音の階段を踏みしめながら遠い記憶へと、さかのぼっているのかもしれない、そんな気にさえなってくる。