ワタシとアナタは別々の生を生きながら、互いに興味をもつことができる。互いの個性を了解し共有することでワタシタチという第三の身体を認識することができる。

当たり前なようだが、この能力こそ人類の証しらしい。

同じ食物を共有するとき「美味しい」という気持ちを伝え合い、喜怒哀楽を交感し、他者を理解しようとする欲求、能力を提供し補いあうこと、いずれも霊長類から人類へと変化しながら祖先が紡いだ共生の知恵だというが、それは僕ら自身にも未だ途上の知恵とも思えてならない。とすれば、芸術もその端っこに連なり少しは互いの役に立てるのかとホッとする。

先祖はある日、大地から手を放し垂直な立位に至った。大地から手を放すことで、さまざまな情緒を運動の波に置き換えることができ、その波を感じ模倣し合うことで、コミュニケーションが劇的に深まったそうだ。

ゴリラが胸を叩くドラミングという動作は威嚇のためだが、恐がらないでじっとしていると、やがて何もしなくなるという。ゴリラはルールが通じる相手を攻撃しないという。ドラミングは地から手を放し胸を開いて初めて可能な行為だが、それは単なる脅しでなく無駄な闘争を避けたり相手を理解する役割も担っている。

宙に解放された腕はより複雑なサインを他者に送ることができるようになる。二足立位によって支点が4点から2点に減ることで腰の自由度は増して姿勢そのものが無限に変化し、より複雑な環境模倣や感情の伝達が可能になる。私たちの踊りも立ち方次第で力が大きく変わる。胸や腹を他者に開くことこそ踊る身体の始まりだった、ということか。

そういえば、古い踊りには地から手を放し宙を仰ぐ動作が沢山ある。アフリカ、チベット、インドネシアを旅すると、今もそれは活き活きと舞場に上る。

身を伏せて地を叩き、また起き上がるダイナミックな動作。しゃがんでは立ち上がる激しいステップ。大地礼賛ともとれるそれらには、二足立位の瞬間の喜びも残されてあるように思える。

踊ることから歌うことへ、歌うことから話すことへ、とコミュニケーションは変化したというから、言葉は比較的新しい知の交感のようだ。踊り、歌い、語り、身体は次第に静けさに留まってゆく。

系統進化の過程は、個の一生にも反映している。

赤ん坊がハイハイから立ち上がる日、家庭には特別なひと時が流れる。胸からパッと両腕を広げ、赤ん坊は全身に空気や光を浴びる。その姿は、まぶしく明るい。

やがて赤ん坊は父母の歌を真似て歌い、解き放たれた両腕で様々なものを叩いて遊び、言葉の獲得とともに落ち着いた行動をするようになる。自我を確立し、やがて親から独立してゆく。
独立した者は新たな結びを求めて他者に関わってゆく。新しい家庭や社会が生まれる。歴史が少し動く。

しかし私たちは時折、源流に戻り、より直接的に感じ合うことを求め合う。語り合うカップルは同じ歌を歌い、やがて抱き合い、また再び別々の人として語り合う道を歩いてゆく。言葉と音楽と踊り、そこには人類史の、そして個人史の、関わりのドラマがあるように思えてならない。

赤ん坊は母親が話す姿よりも歌う姿の方を長く注視するという。
話すときより歌うときの方が全身が細やかに震え柔らかに波うっている。音と身体がひとつになって気持ちを滲ませている。
聴きながら注視している赤ん坊は母親と共振しているのだという。つまり踊っているのだ。

霊長類研究で名高い山極寿一さんの著書を読みながら、そんなアレコレに思いが広がっている。

ニホンザル、チンパンジー、ボノボ、ゴリラ、、、。さまざまな猿の生態や変化の歴史が語られながら、時に私たちの生活を振り返り、言葉や音楽や行動や家族や社会の変遷に、氏の文章は立ち寄ってくれる。理科系の思考が、いつのまにか生活感情に結びついて親しみが湧く。これは先祖についての物語であり私たちの物語でもあるのだと気づく。「霊長類研究の宝」として学生や研究者から慕われる山極氏の人柄が、著書からも伝わってくる。