響きといえば、ダンスも響きの歓びではと僕は思う。音に、闇に、身ごと溶け合うこと、その風景。それを見つめるとき、しばしば僕は響きを目の当たりにしているように感じる。
「もの」が「こと」になる場。日常の意識では固く確立しているはずの、わたくし、というものが、移ろいゆく現象の過程であることを露出する瞬間でもあるのか。
舞台ばかりではない。レッスンの場でも、カラダが響き始めるのを垣間見ることは、たびたびある。
土曜の午後は2つのレッスンを行って過ごす。レギュラークラスはシンプルな振付で音楽や詩の朗読に身を委ねてゆく練習。つまり身体を響きに還してゆく作業だ。ノリ、波動感、躍動感、呼吸感、メインになるのはヴァイブレーションやダイナミズムの練習だが、それは無駄な力みを抜いて全身にハートの熱を伝えてゆくことでもあるし、熱が伝わるように身をほぐす作業でもある。強張りを抜いてゆく作業を続けていると、ある日、少しずつ身体から揺れや振動を感じ始める。カラダが楽器のように響き始める。つかみ、という瞬間でもある。
基礎クラスは各部の凝りや張りをほぐし、バランス力や可動域を回復してゆく。
カラダが重いと気持ちも重くなる。踊りの稽古が身を軽くしたり気持ちを楽にしてくれる効果は、的確に与えられるリズムや伸縮や集中や解放が、身体本来の機能を回復する力があるからだ。
バランス力の調整は精神的な落ち着きや感情の穏やかさを生むし、可動域のスムーズさは血流のみならず動作全ての快適さを促しリラックスしやすくなる。感覚器官としての身体が機能を取り戻すことで、人は環境との違和感を払拭する。また、身体そのものの現状を感じとり易くもなる。良い部位には快適感を、悪い部位には痛みを感じるのがカラダ。その感覚からカラダは動と静のバランスをとり続ける。その響き方を聴き、その時その時の旋律を奏でる暗黙知を獲得するのがダンスの技術には秘められているように思う。
日々カラダのコンディションは変わるが、人は動かずに時を過ごすことは出来ない。その時その時の身体と対話するように、休めるべきところを休め、動かすべきところに動きを与える。そのためには本来の動きをカラダで識ることが一番だ。
身体は精密な楽器に似ている。規則的に調律したり手入れしないと響かない楽器になって、やがて壊れる。
アメリカのダンサー、ルイジ・ファキートが日本の舞踊家・伊藤道郎から身体調整方法を学び続けたことから長い不調や怪我から立ち直りジャズダンスの巨匠になったのは有名な話だ。余談はさておき、休めるべきところを休めながら動かすべきところを動かす、その判断力は、身体のさまざまな部位の動きや重心や呼吸の、本来あるべき仕方を丁寧に探る時間を繰り返し繰り返し過ごすことから芽生える。
基礎クラスのワークは身体の調律に近い。インストラクトしながら、僕自身も一週間の無理や歪みが修正される感覚を味わうことが出来ている。練習生の方々と過ごしながら、踊れるカラダとは、ほぐれたカラダである、ということを確かめる貴重な時間となっている。
ピアノ調理師は、湿度を孕んで硬くなった鍵盤に少しの緩みを与え、打弦フェルトに針を刺して柔らかくほぐす。張り詰めた弦のテンションを、いったん緩め、じっくりと張り直す。細やかな作業を経て、あらゆるバランスを回復したピアノは生まれ変わったように鳴り、響く。身体も、非常に近い。くまなく動きを試してゆく時間を経て、肌の色艶から眼の輝きまで、表情が変わってゆく。
身体は楽器に似ている。
「もの」が「こと」になる場。日常の意識では固く確立しているはずの、わたくし、というものが、移ろいゆく現象の過程であることを露出する瞬間でもあるのか。
舞台ばかりではない。レッスンの場でも、カラダが響き始めるのを垣間見ることは、たびたびある。
土曜の午後は2つのレッスンを行って過ごす。レギュラークラスはシンプルな振付で音楽や詩の朗読に身を委ねてゆく練習。つまり身体を響きに還してゆく作業だ。ノリ、波動感、躍動感、呼吸感、メインになるのはヴァイブレーションやダイナミズムの練習だが、それは無駄な力みを抜いて全身にハートの熱を伝えてゆくことでもあるし、熱が伝わるように身をほぐす作業でもある。強張りを抜いてゆく作業を続けていると、ある日、少しずつ身体から揺れや振動を感じ始める。カラダが楽器のように響き始める。つかみ、という瞬間でもある。
基礎クラスは各部の凝りや張りをほぐし、バランス力や可動域を回復してゆく。
カラダが重いと気持ちも重くなる。踊りの稽古が身を軽くしたり気持ちを楽にしてくれる効果は、的確に与えられるリズムや伸縮や集中や解放が、身体本来の機能を回復する力があるからだ。
バランス力の調整は精神的な落ち着きや感情の穏やかさを生むし、可動域のスムーズさは血流のみならず動作全ての快適さを促しリラックスしやすくなる。感覚器官としての身体が機能を取り戻すことで、人は環境との違和感を払拭する。また、身体そのものの現状を感じとり易くもなる。良い部位には快適感を、悪い部位には痛みを感じるのがカラダ。その感覚からカラダは動と静のバランスをとり続ける。その響き方を聴き、その時その時の旋律を奏でる暗黙知を獲得するのがダンスの技術には秘められているように思う。
日々カラダのコンディションは変わるが、人は動かずに時を過ごすことは出来ない。その時その時の身体と対話するように、休めるべきところを休め、動かすべきところに動きを与える。そのためには本来の動きをカラダで識ることが一番だ。
身体は精密な楽器に似ている。規則的に調律したり手入れしないと響かない楽器になって、やがて壊れる。
アメリカのダンサー、ルイジ・ファキートが日本の舞踊家・伊藤道郎から身体調整方法を学び続けたことから長い不調や怪我から立ち直りジャズダンスの巨匠になったのは有名な話だ。余談はさておき、休めるべきところを休めながら動かすべきところを動かす、その判断力は、身体のさまざまな部位の動きや重心や呼吸の、本来あるべき仕方を丁寧に探る時間を繰り返し繰り返し過ごすことから芽生える。
基礎クラスのワークは身体の調律に近い。インストラクトしながら、僕自身も一週間の無理や歪みが修正される感覚を味わうことが出来ている。練習生の方々と過ごしながら、踊れるカラダとは、ほぐれたカラダである、ということを確かめる貴重な時間となっている。
ピアノ調理師は、湿度を孕んで硬くなった鍵盤に少しの緩みを与え、打弦フェルトに針を刺して柔らかくほぐす。張り詰めた弦のテンションを、いったん緩め、じっくりと張り直す。細やかな作業を経て、あらゆるバランスを回復したピアノは生まれ変わったように鳴り、響く。身体も、非常に近い。くまなく動きを試してゆく時間を経て、肌の色艶から眼の輝きまで、表情が変わってゆく。
身体は楽器に似ている。