数学者のアラン・チューリングがいなかったら、僕らは今こうしてコミュニケートできてなかったに違いない。世界が複雑で捉えがたいこと、人間が多様で簡単に理解し合えるものでないこと、その認識を僕らが持つことができるようになってきたのは、幸運なことと思えて仕方がない。単純化された世界は恐ろしい。僕たちが使っているアップルコンピュータのロゴは齧られた林檎だ。関連性はないかもしれないが、コンピュータの生みの親であるアラン・チューリングが自殺した傍には齧られた毒入り林檎が転がっていたという。ナチスの暗号を解読しコンピュータへそしてAIへと飛躍してゆく「別の考えかた」をもつことができる人物を死に追いやったのは同性愛を完全に否定する「単純な」道徳だった。

話題の頃から気になっていた『イミテーション・ゲーム』(2014)という映画をやっと観てすこぶる面白かった。「時として誰も想像しないような人物が想像できない偉業を成し遂げる」そんな言葉が何度となく呟かれる、天才と機械と思考と悲劇についての映画だ。チューリングと彼を支え続けた女性ジョーン・クラークの関係も素敵だった。

そういえば2045年という説もあるそうだが、ごく近い日に私たちは「技術的特異点」なるものの到来に向き合うことになる、という予測はどのていど当たるのかは別として、その到来によって僕らがどう変化するのかを考える面白さがある。

「技術的特異点」は人工知能が人間の知能を超える一点だ。ある日、AIが人間の思考回路を越え、それによって科学技術の進展が生物学的限界を超えて爆発的に加速し始める日。そのような話を聞いて僕は思う。もしも、その日が来るならば、例えばそれは、人間が「能力」という価値観から解放される日なのではないか。例えばそれは、優劣の階段から人間が降りる日なのではないか。例えばそれは、エコノミーやエコロジーといった外側の支配権を人間が手放す日なのではないか。と。

その日を境に、僕らは僕ら人類の老いに突然気づくのかもしれない。運命を息子に預けるように。その日を境に、僕らは、命あるものと、命なきものの思考が、いかに共存することができるかを考えざるを得なくなる。その日を境に、僕らは僕ら自身の「人間らしさ」、人間味というものについて目覚めざるを得なくなる。命あるものの思考とはいかなる特性をもつのだろうか。

一体どんな信ぴょう性があるのか知る由もないが、一部にそんな予測があるならば、少しばかり気にしても悪くはないだろうと思う。

どのみち世界は変わるのだし、変わる世界を前提にして僕らは生まている。
外側の世界を変える力もあるならば、内側の世界を変える力もまたあるだろう。
文明が外側の世界を変えるならば文化は内側の世界を変える。社会が外側に力を持つならば、個人は内側に力を持つにちがいない。人工知能が外側の世界を担うまでに働くならば、「心」という、知能とは別の言葉で僕らが呼ぶ何か、が内側の世界に果たす役割もまた、想像を超える大切さを担うことになるのではとも思う。
その準備が今の僕らにあるのかな、とも。