先日の舞台『ホーリーバード』は、ダンサーが客席に出てくる始まり方になった。観客の方々と同じ所を見ながら想いや行為を出発したかった。
ご来客の着席する流れを受けてダンサーが入り、そこから起きるカラダや雰囲気の変化を見ながらスタッフがタイミングを見つけて音や光を投げ入れてゆく。
最初に感じたのは人の温度だった。
見られているという感覚よりも「そこ」に集う人の体温や意識が皮膚に沁みこんでくる感覚。それが今回の踊りの導火線になった。
人を感じとること。現場を呼吸し膨らませてゆくこと。それがダンサーにとって重要な舞踊センスなのではないかと、改めて思った二夜だった。
それが無ければ、ダンスというよりも、閉じた妄想の蠢きに過ぎない不可解な時間がダラダラ空回りする、ツマラナイ舞台になってしまうのではないかと。
リハーサルを繰り返しながら構築されたイメージの力は作品の輪郭を決めるが、しかしそれは「踊り」にとっては一つのバネでしかない。むしろ、イメージや作品という構築物を、いかに溶解して現実の時間や空間に潜む様々なエネルギーと結びつけてゆくか。
それらが肉体と一緒に現場に持ち込まれ、そこに観客が加わった瞬間から、初めて「踊り」なるものが呼吸し始めるのではないか。
そんなことも今去来する。
作品やイメージという虚の世界と、ダンサー自身や観客やスタッフの実在という現実の世界が、スパークしながら「虚実皮膜」のトワイライトゾーンを形成してゆくのではと思う。
瞬間の、その一回の逢瀬。
そんななかで肉体にも想像力にも様々な事件が起き、現場にある全ての心臓や脳の波長が、動き揺すりあいながら、「踊り」というものが成立
したとき、初めて舞台独特の感覚が体験されるのではないか。 と思う。
公演後は、とても色々なことを考える。引き続き、書きたい。
ご来客の着席する流れを受けてダンサーが入り、そこから起きるカラダや雰囲気の変化を見ながらスタッフがタイミングを見つけて音や光を投げ入れてゆく。
最初に感じたのは人の温度だった。
見られているという感覚よりも「そこ」に集う人の体温や意識が皮膚に沁みこんでくる感覚。それが今回の踊りの導火線になった。
人を感じとること。現場を呼吸し膨らませてゆくこと。それがダンサーにとって重要な舞踊センスなのではないかと、改めて思った二夜だった。
それが無ければ、ダンスというよりも、閉じた妄想の蠢きに過ぎない不可解な時間がダラダラ空回りする、ツマラナイ舞台になってしまうのではないかと。
リハーサルを繰り返しながら構築されたイメージの力は作品の輪郭を決めるが、しかしそれは「踊り」にとっては一つのバネでしかない。むしろ、イメージや作品という構築物を、いかに溶解して現実の時間や空間に潜む様々なエネルギーと結びつけてゆくか。
それらが肉体と一緒に現場に持ち込まれ、そこに観客が加わった瞬間から、初めて「踊り」なるものが呼吸し始めるのではないか。
そんなことも今去来する。
作品やイメージという虚の世界と、ダンサー自身や観客やスタッフの実在という現実の世界が、スパークしながら「虚実皮膜」のトワイライトゾーンを形成してゆくのではと思う。
瞬間の、その一回の逢瀬。
そんななかで肉体にも想像力にも様々な事件が起き、現場にある全ての心臓や脳の波長が、動き揺すりあいながら、「踊り」というものが成立
したとき、初めて舞台独特の感覚が体験されるのではないか。 と思う。
公演後は、とても色々なことを考える。引き続き、書きたい。