4月アタマに上演となる新作ソロダンス、、、。今回は、これまでとは違うプロセスで作業を経験している。
運動感覚というか身体の動きが先行して通しの形になっている。
震災直後の『方舟』という作品のあと、浮かんで消える断片的な様々なムーヴメンツがあった。それらが堆積していたのか、いつのまにか一連に繋がっていた。
無音の中で運動だけが時や場所を満たす状態を繰り返し体験しながら、カラダのなかで鳴り響いている音を現実の音にしたり新たにイメージや言葉で負荷をかけて変化を観察する作業に進んでいる。空白を埋めるのでなく削れるだけ削ってゆく彫刻的作業とも言える。
昨年の長崎原爆忌公演や秋公演は主題から踊りを立ち上げたが、今回は逆転した。
動きがあって、何かを感じる、これは何だろうと考える。そして動きが考えや感情を孕んで膨らんでゆく。
カラダの声を聴く、などとよく言うけど、それそのままを出来るのだから、贅沢を経験しているのかもしれない。
腹から出てきた子の顔を見ながら名をつけるのにも似ている。
言葉の前に実体がある。
これは何だろう、このダンスにどんな願いや衝動が潜在しているのかと探索するのは興味深い作業だ。
ダンスは言葉を帯びて変化する。
音を受けてまた変化する。
さいごには照明の光を浴び、観客の視線や気配を受けて、本当の姿を露わにするのだろう。
いま沈黙のなかで流れている、この運動や姿態が、いかなる花を咲かすかしら。