子は親の背を見て育つという言葉があるが逆さにすれば親とは背を見つめられている存在ということだから、それはオトナのカラダというものの在り方を示しているようにも思えてくる。舞台に立つカラダのみならず日常でも「見られている」という意識のなかで初めて開けてゆく可能性が僕らにはあると感じる。見つめられるカラダとは見られても何不都合のないカラダなのだから、他人の眼に何もかも委ねて構わない、という気持ちがまず無ければ、大人のカラダはだらしのないカラダになってしまうのだろう。嘘や隠し事のないカラダでもあるか。眼差しのなかに立ち居振る舞うこと。それはまず、これが私です、と凛とすることと思う。どうぞ見て下さい、と黙って立つことから、他人の言葉を受け取ることすなわち対話が始まるのだろう。そして受容したり抗ったりという、他者との呼び交わしのなかでこそ、私は私そのものを見つけて私という存在を膨らましてゆくことができるような気がしてならない。そんな姿の背中に、子を育てる風景が宿るのではないかしら、と、思えてならない。他者あっての自分。見つめられながら、対話を重ねながら、変化してゆく自分。そんな試行錯誤の七転八倒が大人の背中を育て、その育つ姿を見て、子らもまた何か可能性を感じて育つのだろう。私とは関係のドラマ。カラダとは関係のカタチ。もとより生は眼差しのなかにあり、生まれ生きて死ぬこと自体が他者と関わるということだから。
誰かが誰かに出会わなければ、生まれることさえ出来なかった、というのが、カラダの起源なのだろう。