もうすぐ長崎入りします。
70年目の原爆忌にダンスを、ということで始めた今回の作品制作も佳境。現地作業は奇しくもヒロシマ忌の8月6日に開始。学び多い作業だけに、駆け巡る思索も多々あり。何回かに分けて作業ノートの断片を。
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『弔いの火』ノートより、1


「こんな長い列車を今迄見たことは無かった。
列車がカーブを曲ると、その長さに又驚いた。
長崎原爆の死傷者を救いに行く救急列車だ。」
(証言より引用:下記)


今回のプロジェクトを通じて「長崎の救護列車」のことを知る。
長崎公演の会場「松原小学校」は上に引用した文章にある「原爆救護列車」で被爆した方々が運ばれた場所。
いま子どもたちが学び遊ぶ。その子たちと場をつくる。
子どもたちは祈りの歌を稽古しているという。それなら、そのなかで踊りたい。そんな方向性が出ている。

今回のプロジェクトは原爆のあの日の「地獄の中での助け合いの記憶」を伝える人たちの力による。
その人たちに関わりながら、思う。
原爆は肉体を殺すことが出来ても魂を殺すことは出来なかったのではないか。
同時に自問する。
僕らは僕らの子どもに何を託すか。

被爆70年。
ナマの記憶を、ナマの声を聴くことが出来る時代が、いま、間もなく、終わる。
それを実感しながらの作業。
渦中、自問わく。
新しい人を生み育てること。それができているかな、と、ふと。
やがて僕らは星になる。人生を生きながら、子どもたちのために道を用意するのが大人の仕事。
それが本当に意識できているかな、と。

1回だけの公演である。
70年目の8月9日はもう来ないから。


※ 長崎という「祈りの地」に原爆が落とされた。被爆直後の助け合いがあり、助け合う人々もまた放射能に晒された。家族を助けに行ったお母さんのお腹に宿った新しい命もまた放射能に侵された。救護被爆という。70年。まだ光が当たっているとは思えない。放射能の問題にかかわるそれは現在にも繋がる。祈りの地に投下された原爆は、人とは何か、ということを私たちに問いかけている気がしてならない。

以下、よろしければ。
また何か見つけたらご紹介します。

★原爆投下の日の松原小学校で(今回の会場)

★被爆体験、救護列車(上記引用先)

★伝える気持(今回の発起人の方のブログ!)

★次回=東京公演の予定