身体に筋肉があるのは当たり前だけれど、踊りをしていると、心にも筋肉があるように思えてならない。
今更の実感。
肉体の筋肉、心の筋肉。
踊りの稽古から見えてくるのは、どちらが先かと言うと、心の筋肉のほうだ。そして、心の筋肉がついてきた人は、必ずと言ってよいほど、身体の動きも活発に美しくなってゆく。それが、稽古の経過からわかってくる。
心の運動と結びついた部分の筋肉が変化するのかもしれない。
感動が身体に伝わってゆく有様は、手に汗握る、胸が詰まる、などなど日常にも言葉すること多い。
その全身バージョンというか、髪から爪先まで心の感動を伝えて踊りになるのだから、踊るときは、かなり心の活動を強くすることになる。
身体を柔らかくするのは、心の活動を敏感に受け止められるようにする為だと思う。
その仕方を紐解いて、肉体だけでなく心も変わったなあと喜んでもらいたいと強く思うようになってきた。
何か思うことは誰でも思うのだが、大きく思わないと身体は心の声を聞いてくれない。大人の身体は子どもほど無防備ではない。社会を生きるうちに、あるいは習慣に慣れ切るうちに、心の声を簡単には反映しなくなる。そして外に出さない声は内部に積もり積もって瘡蓋のように凝りやがて声自体も小さく呟きのようになってゆく。泣くことや怒ることや笑うことが、減ってゆく。
何か思うことは誰でも思うのだが、大きく思わないと身体は心の声を聞いてくれない。
だから、淡い思いにしっかりした輪郭を与え、熱を注いで力に変える。その繰り返しが心に筋肉をつけることになるのだと思う。
そして、心の働きかけを受け止めれば受け止めるほどに、肉体の筋肉はデリケートに敏感になって反応が良くなる。
そんな心と肉体のキャッチボールみたいな様子を、レッスンでも自分自身の稽古でも、垣間見る事が多くなった。いや、そういう視点を大事に思うようになったのかもしれない。20年、30年、色々な人に関われたからかもしれない。
身体の動きは、純粋に肉体筋肉だけの問題でなく、心の筋肉の硬さや柔らかさや強さ弱さにも呼応しているように思えてならない。
こうして書いてみると、あまりにも当たり前のようで、何を今更、とも思うが、実感というものは随分と遅く時間をかけて歩いてくるものですね。ホント、ゆっくりである。
今更の実感。
肉体の筋肉、心の筋肉。
踊りの稽古から見えてくるのは、どちらが先かと言うと、心の筋肉のほうだ。そして、心の筋肉がついてきた人は、必ずと言ってよいほど、身体の動きも活発に美しくなってゆく。それが、稽古の経過からわかってくる。
心の運動と結びついた部分の筋肉が変化するのかもしれない。
感動が身体に伝わってゆく有様は、手に汗握る、胸が詰まる、などなど日常にも言葉すること多い。
その全身バージョンというか、髪から爪先まで心の感動を伝えて踊りになるのだから、踊るときは、かなり心の活動を強くすることになる。
身体を柔らかくするのは、心の活動を敏感に受け止められるようにする為だと思う。
その仕方を紐解いて、肉体だけでなく心も変わったなあと喜んでもらいたいと強く思うようになってきた。
何か思うことは誰でも思うのだが、大きく思わないと身体は心の声を聞いてくれない。大人の身体は子どもほど無防備ではない。社会を生きるうちに、あるいは習慣に慣れ切るうちに、心の声を簡単には反映しなくなる。そして外に出さない声は内部に積もり積もって瘡蓋のように凝りやがて声自体も小さく呟きのようになってゆく。泣くことや怒ることや笑うことが、減ってゆく。
何か思うことは誰でも思うのだが、大きく思わないと身体は心の声を聞いてくれない。
だから、淡い思いにしっかりした輪郭を与え、熱を注いで力に変える。その繰り返しが心に筋肉をつけることになるのだと思う。
そして、心の働きかけを受け止めれば受け止めるほどに、肉体の筋肉はデリケートに敏感になって反応が良くなる。
そんな心と肉体のキャッチボールみたいな様子を、レッスンでも自分自身の稽古でも、垣間見る事が多くなった。いや、そういう視点を大事に思うようになったのかもしれない。20年、30年、色々な人に関われたからかもしれない。
身体の動きは、純粋に肉体筋肉だけの問題でなく、心の筋肉の硬さや柔らかさや強さ弱さにも呼応しているように思えてならない。
こうして書いてみると、あまりにも当たり前のようで、何を今更、とも思うが、実感というものは随分と遅く時間をかけて歩いてくるものですね。ホント、ゆっくりである。