ものごころついたときには、ゾウさん、というあの唄を歌っていたかもしれません。いいえ、お胎にいた頃も聴いていたにちがいない。そんな、まど氏の言葉にそして画業に、出会いなおして、目から鱗が落ちスッと肩から力が抜ける思いで、ああ、なんて大きな言葉があるんだ、なんて自由な時間が空間があるんだ、と泣けた時、もう僕は、良くも悪しくもオトナになっちゃっていた、だから余計に衝撃だったのかもしれません。ウソをついちゃいないかな、ほんとに自由かな。そんな問いかけが、どっと来ました。ゾウさん、と、あの唄をもう久しく歌っていない自分に。だけど、その再会した言葉たちほど眩しかったのは、ほかに無いかもしれません。母なる言葉、父なる言葉。とでも言うのでしょうか。いつも空が広がっているように、いつも地面が広がっているように、言葉は私の中に周りに元素のように広がって私を励ましている。そんな気持ちが湧いて、そして子どもたちに唄を歌ってゆく勇気が始まり、、、。
言葉そのものに対する信頼を、まどみちお、という人は、出会う皆んなに礎してくれたんじゃないかしら。と、ひとしお思い憶うのです。
そして、おそらく僕自身も別世界に行くその日まで、”まどさん”の言葉を心のどこかで歌ってゆくんだろうな、と、思います。一生一緒にある言葉。なのでしょうね。
「ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも
その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として」
(引用:まどみちお作『ぼくが ここに』より)
とうとう逝かれました。104歳、老衰とのこと。
かなしいけれど、
かなしさよりも感謝、ですよね。
おやすみなさい、
まどさん。
言葉そのものに対する信頼を、まどみちお、という人は、出会う皆んなに礎してくれたんじゃないかしら。と、ひとしお思い憶うのです。
そして、おそらく僕自身も別世界に行くその日まで、”まどさん”の言葉を心のどこかで歌ってゆくんだろうな、と、思います。一生一緒にある言葉。なのでしょうね。
「ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも
その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として」
(引用:まどみちお作『ぼくが ここに』より)
とうとう逝かれました。104歳、老衰とのこと。
かなしいけれど、
かなしさよりも感謝、ですよね。
おやすみなさい、
まどさん。