2008年の小説『日と月と刀』を再読、つづけて2000年の自伝的エッセイ『生者へ 』 を読んだ。
ひときわ太い文字で書かれた言葉が、雷のような宿命の言葉のような一言を放ち、それに続く物語が歌のようにうねりゆく。
小説世界。その長く壮大な展開には、読む、というエネルギーが必要だけれど、それはやはり他者の言葉を受け止める、ということでもあり、最後まで読んだ時に初めて迎えることが出来る充実感は、共感というよりはむしろ身体的な体験感覚としか、僕のことばでは言いようが無い。
小説。なるもののもつ手応え、ここにあり、という感覚。
室町京都を舞台に進んでゆく、死を目前にした絵師による記憶の旅、あるいは、『草の剣』と『星の剣』に象徴される、挑戦の記録絵巻。
対して、エッセイにおけるダイレクトきわまりない自らの作家史は、そのものが社会と個人の向き合いのドキュメントとして、読みながら励まされてならない。
何度となくその人の本を読みたくなる、というか、その人の言葉に会いたくなる、という人がやはり幾人とあって、例えば神沢利子さんなり白洲正子さんなり、古くは与謝野晶子に一葉、と、僕の場合多くは何故か女性作家なのだが、その中の数少ない男性作家に、丸山健二さんという存在がある。
べたべたと近づいてこない、独立した人間の言葉。
反感や違和感も受けて立つ潔さが、丸山氏の言葉には、凛々とある。
安曇野の空に突き抜けるアルプスのような厳しい美しさ。
氏の言葉に会うたび、何事かに取り組もうとした初心をバンと思い直させてくれる。
言葉にも、生きた人間のごとく「立ち姿」があるとすれば、丸山氏の言葉は、まさに背筋を通して颯爽と立っていて、それが、こちらの心をクッと睨んでいるようだ。受けてみようじゃないか。と、読みながら、一生懸命になれるのだ。
読書、が、退屈しのぎでなく、やはり精神と精神の向かい合いという、大切な人生の時間のひとこまだということを、大切にしてくれる作家。
そんな人として、僕は丸山氏を尊敬するし、氏の言葉を大切に思う。
このまま、もう一度、いや、何度となく読むかもしれない。
ひときわ太い文字で書かれた言葉が、雷のような宿命の言葉のような一言を放ち、それに続く物語が歌のようにうねりゆく。
小説世界。その長く壮大な展開には、読む、というエネルギーが必要だけれど、それはやはり他者の言葉を受け止める、ということでもあり、最後まで読んだ時に初めて迎えることが出来る充実感は、共感というよりはむしろ身体的な体験感覚としか、僕のことばでは言いようが無い。
小説。なるもののもつ手応え、ここにあり、という感覚。
室町京都を舞台に進んでゆく、死を目前にした絵師による記憶の旅、あるいは、『草の剣』と『星の剣』に象徴される、挑戦の記録絵巻。
対して、エッセイにおけるダイレクトきわまりない自らの作家史は、そのものが社会と個人の向き合いのドキュメントとして、読みながら励まされてならない。
何度となくその人の本を読みたくなる、というか、その人の言葉に会いたくなる、という人がやはり幾人とあって、例えば神沢利子さんなり白洲正子さんなり、古くは与謝野晶子に一葉、と、僕の場合多くは何故か女性作家なのだが、その中の数少ない男性作家に、丸山健二さんという存在がある。
べたべたと近づいてこない、独立した人間の言葉。
反感や違和感も受けて立つ潔さが、丸山氏の言葉には、凛々とある。
安曇野の空に突き抜けるアルプスのような厳しい美しさ。
氏の言葉に会うたび、何事かに取り組もうとした初心をバンと思い直させてくれる。
言葉にも、生きた人間のごとく「立ち姿」があるとすれば、丸山氏の言葉は、まさに背筋を通して颯爽と立っていて、それが、こちらの心をクッと睨んでいるようだ。受けてみようじゃないか。と、読みながら、一生懸命になれるのだ。
読書、が、退屈しのぎでなく、やはり精神と精神の向かい合いという、大切な人生の時間のひとこまだということを、大切にしてくれる作家。
そんな人として、僕は丸山氏を尊敬するし、氏の言葉を大切に思う。
このまま、もう一度、いや、何度となく読むかもしれない。