舞台本番はねて数日たち、今日はオイリュトミークラスの再開日だった。
正直、今回の舞台は骨身を削るような体験になったから、クラスの人たちと共有するオイリュトミーの動きは、からだにも心にも、やわらかな温かみを与えてくれた。
胴体中心から頭部と四肢に伸びる熱の放射、しなわち五角形の星形を成す僕らの身体のカタチは、紛れもない光を放つ形式なのだという基本認識に、オイリュトミーは始まり、その、星形の変容、熱や光の解き放ちをダンスにする。それは、己を信じよ、というメッセージにも感じる。そんな、オイリュトミーの原理を稽古しながら、ああ、これはやはり、母性のダンスだなと、思うのだった。
ずいぶん前に、オイリュトミーのエッセンスを溶かしこんだ子どものためのダンスをNHKの依頼で毎週一年間つくり続けた。何年も再放送するそのテレビプログラムは、小学校の国語教育に使う番組なのだと聞いて、僕はその毎週のダンスに、ポカポカダンス、という名前をつけた。子どもたちが国語を習うとき、まず机から離れて、先生と一緒に、日常の「おはよう」とか「サヨナラ」とか「うれしい、かなしい、さびしい、くるしい、たのしい」とか言うコトバを全身全霊で身体表現し、思いを伝える苦労や伝わったときの温かみを体験してほしくて、
そして僕らの精神を守る国語の美しさを身体で味わうことからコトバを学び始めてほしくて、そう名付けたのだが、オイリュトミーは、そんな、コミュニケーションの温度に触れる的確な仕方を、僕らに与えてくれるダンスメソッドだと、あの仕事をしながら思っていた。
そのことを、今日ひそかに再認識した。
今日のレッスンで味わったのは、ピアノの音階スケールつまり音の高低を身体の解放感で体験してゆく基礎練習、それから、季節の移り変わりを表現したシュタイナーの詩篇『魂の暦』の秋の始まりの部分の踊りだった。
土を踏みしめながら直立して味わう出発の音を『ド』とすれば、未来を思って空に身を投げる音が『レミファソラシ』と高みに駆け上ってゆく。そのダイナミックな感じを胸を開き腕かかげ徐々な爪先立ちながら、空気のなかを疾走していった。
魂の暦では、運命の糸に触れながら自分の役割に気付いてゆく、人生の音階に思いを馳せながら、エネルギーフローを動いた。
次。
人は誰しも何かの役割を担ってこの世にある、という直感を、シュタイナーは秋の実りの季節に歌っている。
ごく大雑把に意訳すれば、
私は何かの役にたちたいと感じる、そんな私を、運命と宇宙の生命流が、見つめている。
という内容だろうか。
そんなテキストを聴きながら、空間に力強く波を刻む経験を愉しんだ。
息の実感はダンスのイノチだ。うれしさも、つらさも、生きている証しとして受けながら、運動し、汗かき、肌あわせたいと、思うその思いが、フとよぎる。
踊りはイノチの確かめ。
そんなことを、感じながらレッスンを再開できた。
※ちょっと、とりとめないのですが、いま思いのママざっくりと書いてしまいました・・・、失礼しました。
正直、今回の舞台は骨身を削るような体験になったから、クラスの人たちと共有するオイリュトミーの動きは、からだにも心にも、やわらかな温かみを与えてくれた。
胴体中心から頭部と四肢に伸びる熱の放射、しなわち五角形の星形を成す僕らの身体のカタチは、紛れもない光を放つ形式なのだという基本認識に、オイリュトミーは始まり、その、星形の変容、熱や光の解き放ちをダンスにする。それは、己を信じよ、というメッセージにも感じる。そんな、オイリュトミーの原理を稽古しながら、ああ、これはやはり、母性のダンスだなと、思うのだった。
ずいぶん前に、オイリュトミーのエッセンスを溶かしこんだ子どものためのダンスをNHKの依頼で毎週一年間つくり続けた。何年も再放送するそのテレビプログラムは、小学校の国語教育に使う番組なのだと聞いて、僕はその毎週のダンスに、ポカポカダンス、という名前をつけた。子どもたちが国語を習うとき、まず机から離れて、先生と一緒に、日常の「おはよう」とか「サヨナラ」とか「うれしい、かなしい、さびしい、くるしい、たのしい」とか言うコトバを全身全霊で身体表現し、思いを伝える苦労や伝わったときの温かみを体験してほしくて、
そして僕らの精神を守る国語の美しさを身体で味わうことからコトバを学び始めてほしくて、そう名付けたのだが、オイリュトミーは、そんな、コミュニケーションの温度に触れる的確な仕方を、僕らに与えてくれるダンスメソッドだと、あの仕事をしながら思っていた。
そのことを、今日ひそかに再認識した。
今日のレッスンで味わったのは、ピアノの音階スケールつまり音の高低を身体の解放感で体験してゆく基礎練習、それから、季節の移り変わりを表現したシュタイナーの詩篇『魂の暦』の秋の始まりの部分の踊りだった。
土を踏みしめながら直立して味わう出発の音を『ド』とすれば、未来を思って空に身を投げる音が『レミファソラシ』と高みに駆け上ってゆく。そのダイナミックな感じを胸を開き腕かかげ徐々な爪先立ちながら、空気のなかを疾走していった。
魂の暦では、運命の糸に触れながら自分の役割に気付いてゆく、人生の音階に思いを馳せながら、エネルギーフローを動いた。
次。
人は誰しも何かの役割を担ってこの世にある、という直感を、シュタイナーは秋の実りの季節に歌っている。
ごく大雑把に意訳すれば、
私は何かの役にたちたいと感じる、そんな私を、運命と宇宙の生命流が、見つめている。
という内容だろうか。
そんなテキストを聴きながら、空間に力強く波を刻む経験を愉しんだ。
息の実感はダンスのイノチだ。うれしさも、つらさも、生きている証しとして受けながら、運動し、汗かき、肌あわせたいと、思うその思いが、フとよぎる。
踊りはイノチの確かめ。
そんなことを、感じながらレッスンを再開できた。
※ちょっと、とりとめないのですが、いま思いのママざっくりと書いてしまいました・・・、失礼しました。