「わたしたちは星の欠片で、できている」柳澤桂子
「それは実際すぐそこにあるんだけど、
目には見えない・・・」アンディ・ウォーホル
このまったく別なる二つの言葉に何度も励まされて、今回の作品は明日から二日の上演にたどり着きつつある。
皆様との呼吸へ…。
自我の言葉が火ならば、他者の言葉は風か。
言葉と言葉が触れ、こすれ、溶けたり散らばったりしながら、やがて沈黙が来る。
そして小さな小さな振動が、ようやく身体を揺さぶり始める。
ウォーホルの言葉は創作ノートの最初のページにメモされている。
柳澤氏の言葉は、書かれてないのに、稽古が終わるたび、心をよぎり続けた。
科学者と画家。とても違う方角から聴こえる言葉が、湧いては消える思いに微風を吹き、さざ波をたてた。何度も。
舞台で、いかなる風に出会うのだろうか。
自分の言葉で立たなきゃ駄目だよ、と言われて、もがいた時期が10年ほどあった。しかし、僕はそれほど強くない。思いを伝えるより、思いの交錯に揺れ迷うままに立って生きている。いや生かされて、あるのではないかしら。
自分の言葉がほしいとは思わない。何かと何かが出会う瞬間に、ざわめきあらわれる、まだ言葉になる未明の言葉、明るさを放つ前の闇から光に変容し始める火の種。そんな、淡くデリケートな磁場に、ただ身をさらしたい。
ひとつのからだ。
それは、関係のカタチかもしれないと思う。
水の入ったバケツを持って小学校の廊下に立たされていた身体は、いま何を持って突っ立っているのか。両手いっぱいの米か、あるいは見てきた夢の重さか。
ソロダンスを馬鹿のひとつ覚えみたく続けて、いま、少しだけ見え始めたのは、他力っていう事かもしれない。
無数の関係に結ばれて、ようやく立っている。そんな感覚が、今回、強い。
矛盾するけれど、ひとり、で踊れば踊るほど、関係スル、という事に切迫してゆく。
ひとり、ひとつ、を確かに受け止めるということは、他力と結び交わすことに相似してゆくのかな、と密かに覚える今。
この二日間に上演する『ひかり- not here』は、最後のリハーサルを終えて、ライブ=現場に入る。
客席の視線と出会い、呼吸し、真っ白へ、何かの結果ではなく、何かの始まりへ。
文頭の言葉の杖を、手放す時がきた。自分の言葉も捨てる。からだ、だけになる。さあ、出来るか。
今夜は眠らねば。
ささやかながら、一期一会を、光の呼吸を。
劇場にて、お待ちしております!
櫻井郁也・公演サイト