生きた水。
水、といえばスイカ。
値が高くなったこともあって、子どもの頃みたいに目隠し鬼でスイカ割りを遊んだり、ずらりと並べたやつを片端からざくざく食べるようなことはできないけれど、それでも、やはり夏には欲しくなる。食べると言うよりは、飲む。
カラダを適度に冷やしてくれるから、暑中の果物はうれしい。
僕の場合、とりわけ水分補給がわりにすることが多い。
たいてい動いているからか、夏の一日はおおむね汗をかいているのだけれど、
なぜか飲み物よりも果物とか水分の多い野菜で水をとったほうがすっきりするみたいなのだ。
野菜は生きた水である。
というが、なるほど、なのだ。
水にも色々あるらしく、単に水分補給でなく、私たちの身体を内部から洗い流す役割を果たすのが、新鮮な野菜が茎や葉にたくわえている水なのだ、という話。
カラダの中を洗う。これも言い得て妙だ。
生きた水。
うん、なんだかいい言葉だと思う。
ついでに、じゃあ生きていない水もあるのかな、と余分なことも、思う。
たぶんあるのだろうけれど、勝手に思うに、水が生きていると言うよりも、生気を活かす水と、生気を奪ってしまう水。これは確かにあるんではなかろうか。
一個人の体感に過ぎないので、どうか聞き流してほしいのだけれど、飲んだ時にカラダの芯が重くなってしまうタイプの水が、どうやら僕にはあるみたいだ。
たまたま東京の水道水は郷里の水よりカラダに楽だ。
何度かダンスでお世話になった白州の水は、さすがだった。
水が良いと野菜や果物も、もちろんである。暮らしやすい。
水が合う、とはよく言ったものだ。
なんでこんなことばっかり今日は書いているのか。
たぶん公演日が近くなっているからだろう。旅先なのである。
こういうときは、からだに一々貞いてしまうのだ。
振付がどうの、舞台上の手順がどうの、いろいろ心配は山となるわけだが、
やはりインスピレーションは肉体に所属しているようであり、
したがって、こんなふうに、
いい水を飲んだだの、あの水は固かっただの、
思うわけである。
水は血にも知にもつながる。
万物は水から生じ、僕らのカラダもまた、おおかたは水で組成されているらしい。
空気は水と呼び交しながら循環し、雨となり陸に注ぎ川となり海に注ぎまた分解して虚空に散らばって、すなわち空気となるらしい。生き物すべてそのなかに生きる。永遠の循環に受け入れられて、肉体は立っている。永遠の循環に溶け込むように、肉体は横たわってゆく。僕らのカラダは水を欲している。僕らのカラダ自体も、また、水である。
水、といえば舞台でも水舞台やら降りそそぐ雨は、憧れの道具であって、
なぜか、びしょぬれの名作は多い。
テレビやら映画も、いいところになると雨が降ることが多い。
水、といえばタルコフスキーや黒澤明やジーン・ケリーを思い出すけれど、
ファウストが、いま話題になっているソクーロフ監督も(たしか出身はタルコフスキー組だったのではなかったかしら)昭和天皇を描いた映画で実に見事に水を使ってみせた。水は魂も高揚させるのかな。
あれ、話が大きくなってしまいそうだ。
これから作業をすることになっているから、
きょうはこの辺りでやめておかねば・・・。
(ちょっと中途半端、スミマセン)
水、といえばスイカ。
値が高くなったこともあって、子どもの頃みたいに目隠し鬼でスイカ割りを遊んだり、ずらりと並べたやつを片端からざくざく食べるようなことはできないけれど、それでも、やはり夏には欲しくなる。食べると言うよりは、飲む。
カラダを適度に冷やしてくれるから、暑中の果物はうれしい。
僕の場合、とりわけ水分補給がわりにすることが多い。
たいてい動いているからか、夏の一日はおおむね汗をかいているのだけれど、
なぜか飲み物よりも果物とか水分の多い野菜で水をとったほうがすっきりするみたいなのだ。
野菜は生きた水である。
というが、なるほど、なのだ。
水にも色々あるらしく、単に水分補給でなく、私たちの身体を内部から洗い流す役割を果たすのが、新鮮な野菜が茎や葉にたくわえている水なのだ、という話。
カラダの中を洗う。これも言い得て妙だ。
生きた水。
うん、なんだかいい言葉だと思う。
ついでに、じゃあ生きていない水もあるのかな、と余分なことも、思う。
たぶんあるのだろうけれど、勝手に思うに、水が生きていると言うよりも、生気を活かす水と、生気を奪ってしまう水。これは確かにあるんではなかろうか。
一個人の体感に過ぎないので、どうか聞き流してほしいのだけれど、飲んだ時にカラダの芯が重くなってしまうタイプの水が、どうやら僕にはあるみたいだ。
たまたま東京の水道水は郷里の水よりカラダに楽だ。
何度かダンスでお世話になった白州の水は、さすがだった。
水が良いと野菜や果物も、もちろんである。暮らしやすい。
水が合う、とはよく言ったものだ。
なんでこんなことばっかり今日は書いているのか。
たぶん公演日が近くなっているからだろう。旅先なのである。
こういうときは、からだに一々貞いてしまうのだ。
振付がどうの、舞台上の手順がどうの、いろいろ心配は山となるわけだが、
やはりインスピレーションは肉体に所属しているようであり、
したがって、こんなふうに、
いい水を飲んだだの、あの水は固かっただの、
思うわけである。
水は血にも知にもつながる。
万物は水から生じ、僕らのカラダもまた、おおかたは水で組成されているらしい。
空気は水と呼び交しながら循環し、雨となり陸に注ぎ川となり海に注ぎまた分解して虚空に散らばって、すなわち空気となるらしい。生き物すべてそのなかに生きる。永遠の循環に受け入れられて、肉体は立っている。永遠の循環に溶け込むように、肉体は横たわってゆく。僕らのカラダは水を欲している。僕らのカラダ自体も、また、水である。
水、といえば舞台でも水舞台やら降りそそぐ雨は、憧れの道具であって、
なぜか、びしょぬれの名作は多い。
テレビやら映画も、いいところになると雨が降ることが多い。
水、といえばタルコフスキーや黒澤明やジーン・ケリーを思い出すけれど、
ファウストが、いま話題になっているソクーロフ監督も(たしか出身はタルコフスキー組だったのではなかったかしら)昭和天皇を描いた映画で実に見事に水を使ってみせた。水は魂も高揚させるのかな。
あれ、話が大きくなってしまいそうだ。
これから作業をすることになっているから、
きょうはこの辺りでやめておかねば・・・。
(ちょっと中途半端、スミマセン)