5月に亡くなった吉田秀和さんの本を久々にめくる。
知人から、テレビで特集されていたよ、お前好きだったでしょ、と聞いた。
少し懐かしくなった。
初めて読んだのは中学生か高校に入ったばかりだったか、たしか、『一枚のレコード』(中央公論社)という文庫本だったけれど、それをキッカケに音楽を浴びるように聴くようになったのを覚えている。
グールドのゴールドベルク(最初の録音)を知ったのも、たしか、この人の文からだったのではなかったかな・・・。

モーツァルトと違って、思春期の頃は、バッハに少し抵抗があった。
しかし、あの、明るく風通しの良いエネルギーに触れて目からウロコ。
心臓を直接叩かれたみたいだった。
螺旋階段を追いかけっこするような感触、これならば・・・。

ダンスもそうだが、音楽も、その面白さは速度の体験なんじゃないかなと僕は考えている。
滔々と語る速度、夜をかみしめるような速度、いろいろあるが、あの録音では、何万年もの朝と夜の繰り返しを一気にさかのぼってゆくような速度体験があった。
打楽器をやっていた生理に合った。そう、ピアノも打楽器。忘れていた。
気がついた。バッハに抵抗があったのではなくて、触れてきた演奏に抵抗があっただけだったことに。だれかの演奏に囚われないで、楽譜を自分の音で読んでいけば、先入観を持たないですんだかも、ということにも。

録音された音楽は、ある意味、こわい。最初に耳にした時、この曲はこういう曲なんだ。と、インプットされてしまう。目を凝らして、たどたどしく音符をたどって想像を膨らませるのと、他人が名演と呼ぶ録音をいきなり聴くのでは、ずいぶん違うなと思う。

いつも夕方になると、家の近所で、子どもがピアノの練習をしはじめる。たいていインヴェンションを弾いてそれは終わるのだけれど、あるときはつまづきつまづき投げ出してしまったり、あるときは得意げにただただ速く指を転がしていたのに、それが、あるときから、ひとつのテンポに落ち着くようになった。それ以来、いつも、その子どもは最後に弾くようになった。決して上手とは言えないけれど、いま僕はその演奏が、とても好きである。

とても古い「名曲三〇〇選」が書棚にあった。有名すぎるあの最初の章を再び読んで、うれしくなった。
第1曲目、レコードなし。という、あれである。
最初の名曲は、私たち人類の誕生よりも遥かな昔に虚空にひびいていた「宇宙の音楽」だ、だから、レコードは無いのだ、そんなふうに、この名曲紹介は、始まる。

一言一言の美しいリズム。書物に置かれた言葉は、そのまま、デリケートに選ばれたサウンドである。あらためて魅了される。
僕は何かを読む時、情報よりも、意味内容よりも、文体を楽しむ。
何か話を聞くときも、何を語っているか以上に、語り口や声そのものに興味がつきない。
吉田秀和の書からは、声がわかる。そして、そこかしこに強いアクがある。
個にアクはつきもの、ただの情報ではなく、人間らしい感情を土台にした思考。

何かを好きになる、という事の奥深くには、これぞと思える他者と、感覚を研ぎ澄ました向かい合いがあるのではないかと、この人の文章を読みながら想像する。
深い向かい合いからは、思いがけない世界が現れるのだということも・・・。

見たことがないものを見てやろう、聴いたことがない音を聴いてやろう。
そんな声がきこえてきそうだ。
自分の足で見つけたものについて、自分の頭で考え、自分の言葉を、自分の手で、書く。
書いている人の、肉体の存在感がきっちりとある、そんな文章だと思う。