物質でありながら音である、いや、物質であるがゆえに音である、そんな存在の仕方を教えてくれた展覧会があった。

ヤン・ファーブルと舟越桂の二人展(金沢21世紀美術館)だった。

素晴らしい展示センスのなか、
ひとつひとつの作品が解け合い絶妙な調べを奏でる。
ファーブル氏のあまりにも有名なbicブルーそして無数の画鋲による人体またアブラモヴィッチ女史との甲冑ワルツあるいは玉虫ドレス骨の彫刻、舟越氏の沈静人体の数々そこに添えられたメンタルな言葉の幸わい。それらはラジカルな思考と真似できない肉の仕事を通過しているからこその沈黙を光らせている。

すぐれた作品は、大勢の人なかにあっても私をひとりにしてくれる。そして、作品を通して、私たちは私たち自身の鼓動をきく静かさを約束される。

スタイルこそ違えど、確かに同じ時のながれに魂をゆだねている二人の作家。底にあるのは、膨大な手仕事を介して秘められた透明な視線、作家自身の天使性だと感じた。ぎりぎりまで凝縮された魂は、血の作業の重なりをへて、水晶のように静かだ。それらは、物でありながら音である。語らぬがゆえに、声である。その声が、向き合う人の魂の声をも誘い出す。そう感じた。

夏の大きな収穫のひとつ。ずっと心に残りそうだ。

帰路、かつてお世話になったことある彫刻家、松本拓也さんの個展にも偶然の遭遇。松本さんは若いが、作品は静かでデリカシーにあふれている。踊りもされている人。そのせいもあるのかな、カラダに五感に優しくはたらいた。

ちなみに、いいなと思う美術には、いつも物質の息吹くサウンドが聴こえる。それから、物質からの視線を感じる。美術家は物質を素材として扱うのみならず、その声を引き出す能力を宿しているのかしら。アーチストの仕事を得て、物質はその奥の息を再生して私たちを見つめているようだ。

私たちは物質に関わって生きている。いや、科学の人の声を聞けば、私たち自身、さまざま物質のひしめき合う空間場なのだという。さて、物質とは何か。

思わず、きりのない考えを巡らす夏の終わり、眠れね夜である。