クラスをしていると、色んな人がエネルギーを放ってくれる。
踊りを通して人生を見詰めている姿に出逢うことしばしば。思いのかぎりカラダに向き合い、熱放って、それぞれの生活に帰ってゆく。感動あり責任も感じる。

ところで。

踊りを見るとき、他人のでも自身のでも、僕は、踝から下に興味が集中してしまうことしばしば。レッスンでも、気がつけば足元をじっと見詰めている。

足はいつも確かな何かを探している。人を支え、人と地を結ぶ小さな足ふたつ。

地を踏む足は、その人の全てを支え、その支えかたは人が己と他者と環境をいかに担っているか、という、まさに個性をあらわにするのではないかと思う。

おのが身を地に結ぶ行為が立ち方。人もやはり、生き物である、幽霊に足はないが、生きた人には例え何かあって物理的に失われていても、自力で立とうとする足がエネルギーの流れとして、見えるような気がしてならない。

自らの足で立っていく、という態度、
自らの足で立っている、というリアリティ、

そこからダンスが始まる。
命のさざめきか、あるいは、
肩肘はった自己主張か。

踊りを創ろうとすると、やはりこの辺りにナーバスになる。

過去に圧倒された足は舞踊ばかりでない。尊厳ある表現者はみな足元が確かだった。
カッワリー名手のヌスラティ・ファテ・アリ・ハーンの大あぐらかいた足、指揮者バーンスタインの跳躍寸前の足、演出家カントルの思考する足。役者マリリン・モンローの、あの足。

土方巽が、ひとのことばで飯を喰うな、と言ったと聞いて、水を浴びたような気になった事がある。なぜか自分の足元を想像して恥じた。

勉強しているつもり、努力しているつもり、いい気になって調子こいている己の足元が、ふと見るとまるでモヤシ。ひと様はだまって見ていたんだ。赤面した。

口の言葉はもちろん、足元のことまで包んだ意味だったのではと妄想し、まさに足すくんだ。

自分の言葉を語れ。それが、自分の足で立て。と響いた。そして、ジタバタと地味な戦いが始まった。まだまだ。

自分の足で立つ、当たり前のようだが、ダンスという行為にあってみると、以外と難しいことだというのが、ひたひたと感じさせられる。

はんぱに色んな本を漁り読むうち、なんだか他人の言葉ばかり借りて知ったかぶりに語る私の姿に気づく、あれれ自分の言葉はどうしたの?その瞬間の恥ずかしさ情けなさを感じた経験は読者諸氏もおありかと察するが、踊りにあっては、これがまず足元のおぼつかなさとして、感情を逆撫でるのだ。

説得力のある踊りは、振りや動きの以前に、説得力のある足元がある。それは、踊る人の生活史をしかと捕まえた足だ。テクニック豊かな足さばきとはまた違う。日々の暮らしを自ら踏破してきた足、生き様が刻まれた足。

踊りは、生活から生まれるイマジネーションだと僕は思うのだけど、その生活ぶりをさらけ出しているのが足。足は顔や手ほど器用に表情しない分、バカ正直にその人の日々の蓄積をさらけ出している。

踊り手は沈黙の専門家だが、それだけに、足は踊り手の隠しおおせぬ言葉を響かせる。

試行錯誤が続く。