空に雲が満ち始めた。
どんどん雨が降り、この雲たちの向こうから、もうすぐまぶしい夏の光がくるんだろう。
生きている星のうえに、生きてアル。
季節がわりが実感できる時期だ。
クラスの内容も、だいたい季節とともに変えてゆく。
あたらしい季節をあたらしい踊りで迎えたいという思いがある。
水曜のオイリュトミー、金曜のダンスクラス、両方とも
レッスンで振り渡しをやっている。
この二つのクラスは毎週通ってもらうスタイルなので、振り付けをして何度も踊り深めてゆくということをする。
そして僕は振り付けをするとき、いつも最初に大きく動いてもらう。
さきに「振り渡し」と書いたが、これからしばらくのあいだに体験してもらいたいこと感じてもらいたいことを「振り」にして「渡す=託す」のだ。振りとはヴァイブレーション(ふるえ)の伝達だと僕は勝手に思っている。だから、あまりちんまりと動いたり、神経質に細かくなると、伝わらなくなってしまう気がしてならない。大らかに、大胆に、思いっきり。
おぼえなきゃ、と思う気持ちもうれしいが、それは2番目の段階でよくて、まずは振りと戯れてくださいと言う。
そうすると、みんな動きが良くなってくる。これが、おもしろい、うれしい。結果的に覚えも鮮やかになる。
戯れながら、エネルギーを発散したり何かを感じ取って味わってほしい。
大きく動いたほうが手応えがある、心に届きやすい。
心の感触が残っていなければ、心ここにあらず、空虚な形の組み合わせになっちゃう。逆に、心の感触がしっかり残っていれば、当初アイデアした形が変化進化して全く新たなものになる可能性がある。それは楽しいことだ。
心満ちて形を生む、形定まって心さらに広がる。そんな往復でありたい。
自由参加の火曜「舞踏ワークショップ」では即興という練習が始まっている。
具体的な振り付けをしないで、いろんなイメージや動きのヒントを投げかけ、自由に想像力とカラダの動きをひろげてゆく練習をする。毎回ちがう動きが出る。心の動きに集中することからカラダの姿がかわる。土曜は基礎的なエクササイズが中心なのでシンプルな動き。振り付けというより僕と一緒に動き、動くことエネルギーの流れを味わうことに集中する。エイ!とカラダを動かせば心のなかでも何かが動き始める。
どちらもやはり、まずは大きく。そして丁寧に。
大胆かつ丁寧、というのがやはり良いみたいだ。
どのクラスに来ても、初心者の人も大きく動いてくださいと言う。
経験者の人でも、今まで習ったことはいったん置いて初心になり、大きく大らかに。
気持ちよかった~、という人が多い。そこから新しい何かが始まる。
ダンスは何よりもコミュニケーティブでありたい。
動きはいつも交流交感交換として生まれてくるし、
そもそもカラダは堅苦しいことがきらいだ。
滞りやら停滞は身体というものに似合わないらしい。
サラサラとエネルギーが流れている状態が、やっぱりいい。
ダンスはその最たるものだと思う。
ダンスでもエクササイズでも、頑張るだけでは、出来ないことが多々ある。
頑張らねばならないこともあるが、頑張るだけでは強ばってしまうのだ。
強ばるとエネルギーは流れない。
重要なのは、「カラダを味わう」という取り組み方だと思う。
こうしよう、ああしよう、という指令系統に囚われず、
こう思えばこうなった、こう動けばこんな気持ちになった。
そのような原因と結果の相関関係を「楽しむ」のである。
そして、どんなときも「イメージを止めない」ことだと思う。
たとえ外見ではじっとしていても、それは「じっとしているという動き」だ。
また、内部は実際動き続けている。生体だ。血が流れている。息をしている。
そのことを感じ続け感情をおさえつけない。イメージも変わるにまかせておく。
イメージが変わるからカラダも変わる。
ココロ、とはコロコロ変わり続けるからココロと呼ぶのではないか。
変化を楽しむことこそ遊び心というもの。
あらゆる変化を受け入れる器として、カラダがある。カラダ、空っぽの「田」。
ダンスはカラダと遊ぶことから始まるのだと思う。
カラダとの遊びが、空間との遊び、時間との遊び、音や言語や色彩や観念や、ついには心の深い場所に潜む存在の核との遊びにつながってゆくのではないか。
レッスンのたび、自らの稽古のたび、そんなことを思っている。
(文章ちょっと雑然としてしまいました、失礼・・・)
レッスン参加のご案内
どんどん雨が降り、この雲たちの向こうから、もうすぐまぶしい夏の光がくるんだろう。
生きている星のうえに、生きてアル。
季節がわりが実感できる時期だ。
クラスの内容も、だいたい季節とともに変えてゆく。
あたらしい季節をあたらしい踊りで迎えたいという思いがある。
水曜のオイリュトミー、金曜のダンスクラス、両方とも
レッスンで振り渡しをやっている。
この二つのクラスは毎週通ってもらうスタイルなので、振り付けをして何度も踊り深めてゆくということをする。
そして僕は振り付けをするとき、いつも最初に大きく動いてもらう。
さきに「振り渡し」と書いたが、これからしばらくのあいだに体験してもらいたいこと感じてもらいたいことを「振り」にして「渡す=託す」のだ。振りとはヴァイブレーション(ふるえ)の伝達だと僕は勝手に思っている。だから、あまりちんまりと動いたり、神経質に細かくなると、伝わらなくなってしまう気がしてならない。大らかに、大胆に、思いっきり。
おぼえなきゃ、と思う気持ちもうれしいが、それは2番目の段階でよくて、まずは振りと戯れてくださいと言う。
そうすると、みんな動きが良くなってくる。これが、おもしろい、うれしい。結果的に覚えも鮮やかになる。
戯れながら、エネルギーを発散したり何かを感じ取って味わってほしい。
大きく動いたほうが手応えがある、心に届きやすい。
心の感触が残っていなければ、心ここにあらず、空虚な形の組み合わせになっちゃう。逆に、心の感触がしっかり残っていれば、当初アイデアした形が変化進化して全く新たなものになる可能性がある。それは楽しいことだ。
心満ちて形を生む、形定まって心さらに広がる。そんな往復でありたい。
自由参加の火曜「舞踏ワークショップ」では即興という練習が始まっている。
具体的な振り付けをしないで、いろんなイメージや動きのヒントを投げかけ、自由に想像力とカラダの動きをひろげてゆく練習をする。毎回ちがう動きが出る。心の動きに集中することからカラダの姿がかわる。土曜は基礎的なエクササイズが中心なのでシンプルな動き。振り付けというより僕と一緒に動き、動くことエネルギーの流れを味わうことに集中する。エイ!とカラダを動かせば心のなかでも何かが動き始める。
どちらもやはり、まずは大きく。そして丁寧に。
大胆かつ丁寧、というのがやはり良いみたいだ。
どのクラスに来ても、初心者の人も大きく動いてくださいと言う。
経験者の人でも、今まで習ったことはいったん置いて初心になり、大きく大らかに。
気持ちよかった~、という人が多い。そこから新しい何かが始まる。
ダンスは何よりもコミュニケーティブでありたい。
動きはいつも交流交感交換として生まれてくるし、
そもそもカラダは堅苦しいことがきらいだ。
滞りやら停滞は身体というものに似合わないらしい。
サラサラとエネルギーが流れている状態が、やっぱりいい。
ダンスはその最たるものだと思う。
ダンスでもエクササイズでも、頑張るだけでは、出来ないことが多々ある。
頑張らねばならないこともあるが、頑張るだけでは強ばってしまうのだ。
強ばるとエネルギーは流れない。
重要なのは、「カラダを味わう」という取り組み方だと思う。
こうしよう、ああしよう、という指令系統に囚われず、
こう思えばこうなった、こう動けばこんな気持ちになった。
そのような原因と結果の相関関係を「楽しむ」のである。
そして、どんなときも「イメージを止めない」ことだと思う。
たとえ外見ではじっとしていても、それは「じっとしているという動き」だ。
また、内部は実際動き続けている。生体だ。血が流れている。息をしている。
そのことを感じ続け感情をおさえつけない。イメージも変わるにまかせておく。
イメージが変わるからカラダも変わる。
ココロ、とはコロコロ変わり続けるからココロと呼ぶのではないか。
変化を楽しむことこそ遊び心というもの。
あらゆる変化を受け入れる器として、カラダがある。カラダ、空っぽの「田」。
ダンスはカラダと遊ぶことから始まるのだと思う。
カラダとの遊びが、空間との遊び、時間との遊び、音や言語や色彩や観念や、ついには心の深い場所に潜む存在の核との遊びにつながってゆくのではないか。
レッスンのたび、自らの稽古のたび、そんなことを思っている。
(文章ちょっと雑然としてしまいました、失礼・・・)
レッスン参加のご案内