心象を鏡のように映し出す身体がある一方で、身体の純粋な運動体験が喚起する心象もある。身体という宇宙に自己を委ねる。その楽しみは、海を体験する楽しみにも近い。からだの中には海がある。重力や光とひとつだったころの遠い記憶が海にたゆたう。そんなことを思いつつ、話しつつ、緩やかにからだを立ち上げ、そして、今日は手本のないところから稽古を立ち上げてみよう、ということになった。ごく単純な、それゆえ自由度たかい動作の提案をもとに、集まっていただいた方が、からだを動かし、動きを味わい続けることのなかで想像力を膨らませ、互いを感じあい、時間と空間と身体を遊んでゆく。手本を出し、矢継ぎ早にダメを出し、シリアスに鍛練する日もあるのだが、各自の感覚をのびのびと開くのも、かたや重要な稽古プロセス。何よりも、自己の肉体そのものに還ってゆくことができる、ということが、踊りの根本だと思うから。試す。考える。語らう。また試す。いつしか、遊びができる空気が生まれ始まってゆく。時間が足りない。そんな声が聞こえそうな動き。レッスン終了の数秒間は、とってもいい集中力が出た。動きの反復から感覚が刺激され、いつしか動きは変化しながら、個々の欲求や世界感やロゴスと結びつこうとしてゆく。そんなプロセスを共有してゆく気配があった。7月28日、ほびっと村学校「舞踏WS」にて。


翌日、定期クラス「オイリュトミー」。時間という概念と踊りについて話し合いたいのだけど、という提案が出た。一般的な時間概念から一線を画して、個の身体から新しい時の流れを生み出してみようということも踊りにはあるのではないか、という設問が稽古に投げられたのだった。オイリュトミーは、現代哲学をバックボーンに控えた踊りで、自己表現以上に認識の拡がりを期待する、一種の感覚拡張システムとしての属性がある。それゆえ、時にはしっかりと話を尽くすのも必要。ひとつの疑問は無限の衝動に道を開く。かなり徹底して話した。時間という概念に先立って生命の多様な流れやリズムがあるのではないか。互いの交歓から生み出しうる時間概念は、制度としての時間を乗り越えるのではないか。身体はそれぞれ独立した時間を宿しているのではないか。諸説交錯、エトセトラ。話は、制度の問題や歴史の問題や個々の欲求やリズムや性や自由や、あらゆる方向に寄り道しながら発展。亡くなったばかりのカニングハムの実験と実現についての回想も交差しながら。いつしか私たちが共有しているパラダイムに気持ちが進んだ。次に踊ってみたい方向が提案されている。現代の心情を踊ってみたい、私たちのリアルな生活にリンクする稽古を進んでみたい。そんな声が聞こえた。やってみようと、思った。8月の稽古が動き始めた。
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【2009年クラス募集】
毎週開講=櫻井郁也定期クラス「オイリュトミー(月謝)」「ダンス/舞踏(月謝)」「基礎トレーニング(月謝&不定期チケット)」それぞれ募集中。
月2回開講=ほびっと村学校ワークショップ「舞踏~カラダの夢、ココロの翼」8月分予約受付中。
どのクラスも初心者より参加できますので、興味のある方はぜひ始めてみて下さい。各クラスとも5~10名、お早めに!詳しい記事はココ