闇が深ければ深いほど、光は強靭に輝き、悲しみも喜びもクッキリと照らし出す。
光の存在を美しく思うときは、同時に、ここにある闇を深く感じているときでもあるのかもしれない。

シャルトルの教会が建築において示した光と闇の激しいせめぎあいを、全く別の方法、一つの肉体の姿あるいは存在の仕方によって私たちに示してくれるのが、興福寺の阿修羅像だと思う。

大地を踏みしめるのではなく、天から真っ直ぐに降り立ったばかりのような、真っ直ぐな立ち方。蓮の花弁のように解放され光り輝いたままの多方向の腕から、スッと下方に流れてゆく矢印が、未発達の筋肉に淡く包まれた胸を通過し、透明感溢れる足先へと受け継がれてゆく。しかし、この像に彫り込まれた三つの顔は、この地上の闇をうんと深く見据えている。

あえて奇妙な比較をお許しいただくとすれば、キリストが背負った十字架を、内部に宿している姿が阿修羅なのではないかとさえ、思えてくる。

「博物館」という場所で神様仏様に向き合うことに、少しばかり違和感がある。僕は奈良の寺町に生まれ育ったからかもしれない。拝む、のと、見る、のは、すこしばかり違う感覚だから。興福寺の阿修羅像は、幼い頃から数えきれないほど向き合った。何十回、何百回かもしれない、阿修羅の前で、悲しんだり反省したり喜んだりした。嘘をついたとき、しかられたとき、受験に苦しんだとき、この像の前に足が向いた。そんな阿修羅が、この大都市に来ている。博物館に置かれる、ということにも、すこしばかり抵抗がある。それでもやはり行ってしまった。会っておきたい。うずうずした感じもあって足が動いた。

会場となっている上野の国立博物館は、うわさ通りの混雑、山手線のラッシュのよう。いったい何がこんなに多くの人を集めるのか、と思うほどの人の波のなかで、阿修羅像を中心に興福寺の神仏ほとんどがずらりと並び佇んでいられた。すごい人いきれと熱気にも関わらず、恐ろしいほどの静寂さで、凛々と立っていられるその御姿に、とめどない感動が溢れた。これはいったい、何に対する感動なのか。特別な信仰がない僕の、心の底の底から、じわりと沸き上がってくる畏れの念、愛おしさの念、憧れの念・・・。生きる/死ぬ、という次元を遥かに越えてゆくような、存在と時とのひろがりつながりを感じる。そこが「博物館」であることなど、忘れてしまう。本当に凄いものは、場所そのものの空気を変えてしまうのだと思う。
結局、僕はただ「見ている」ことはできなかった。知らず知らず「拝んで」いた。
でもそれは神像仏像だからではない。美しさに息をのんで、そうなったのだと思う。美しさに息をのみながら、自らのみっともなさや、この場所の闇の深さを、じっと受け入れようとしていたのかもしれない。

会場を出たあと、上野の人ごみや、降りしきる6月の雨が、なんだかいいもんだなあと思えてきた。いつもなら鬱陶しい都会の人いきれや季節の変調が少しばかり愛おしく感じられてならなかった。なぜだろう・・・。